2015年2月8日、五日市が開かれていたコンジャンの町。コーカン人、パラウン人、ビルマ人、中国人らでにぎわっていた(筆者撮影)【拡大】
■コーカン内戦に巻き込まれて(上)
あれから丸2年が過ぎた。2015年2月23日、ミャンマー国軍のヘリコプターで私はシャン州ラーショーの国軍基地に降り立った。内戦のど真ん中から、命からがら脱出してきたのである。
2月9日、コーカン人(民族)で組織されるミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)が、同じコーカン人で構成されるコーカン自治区政府に対して武装蜂起し、その後ろ盾となっているミャンマー国軍との間で戦闘が始まった。私はその日、シャン州北東部、中国と国境を接する同自治区コンジャン郡の山中で農村調査中だった。今回と次回は、この戦乱の地に図らずも取り残されたために、ミャンマーの内戦を内側から見ることになった経験を振り返ってみる。
◆調査中に戦闘開始
15年2月2日に初めてコーカン自治区を訪れた私は、翌日からマンロー、チンサイタン、チサンの各村の社会経済調査を行った(15年5月1日付「農村見聞録(25)」参照)。
8日、現地で農村開発プロジェクトに携わる吉田実さんと合流し、さらに奥地のコンジャン郡に移動した。その時には、たまたま私が訪ねたこれらの村が内戦の激戦地の一つになるとは思いもよらなかった。ゲリラたちは私が立ち去るのをごく近くで監視していたに違いない。
翌9日、コンジャンの町からさらに山を分け入ったチャーティーモーという村に私はいた。最初に訪ねた家では、四輪駆動車2台と乗用車1台が車庫に納まっていた。大邸宅の屋根にはソーラーパネルが張られ、シャワールームでは大きな孔雀(くじゃく)が飼われていた。なぜ、こんな山奥にこんな金持ちがいるのだろうか。私はがぜん興味がわき、その所得源を根掘り葉掘り聞くことにした。