ここにある「竹島」…島根、鳥取にみる「史実の重み」 (2/4ページ)

島根、鳥取両県にある竹島とのゆかりのポイント
島根、鳥取両県にある竹島とのゆかりのポイント【拡大】

  • 産経新聞社が昭和28年12月に撮影した竹島。手前が男島(西島)、奥が女島(東島)

 海運業を営む米子の大谷家は、越後からの帰路、風に吹き流され、無人島に漂着する。アワビなどの資源が豊かなのに着目し、同業の村川家と幕府に渡航許可を申請。それから両家は毎年、交代で漁に出かけた。鳥取と「竹島」が関わった重要な一歩だ。

 「岡嶋家資料」中、「竹島渡海由来記抜書」には、幕府が両家に与えた「渡海免許」の写しが残る。当時、漁業にこうした免許が必要とは考えられず、特殊事例。その頃、両家の他にも「竹島」に渡る日本人がおり、両家が独占的に操業するため、幕府に公認を求めたとみられている。

 ただ、当時「竹島」と呼ぶのは、今の竹島の北西で朝鮮半島寄りの鬱陵島のこと。両家は鬱陵島への海路の途中にある「松島」(今の竹島)でもアワビやアシカを獲ったり、停泊したりした。こうした営みが、外務省が「遅くとも江戸時代初頭には竹島の領有権が確立された」とする根拠の一つになっている。

 一方、17世紀末、朝鮮の国禁を犯して鳥取に2度来航し、帰国後の取り調べで「日本の幕府から竹島を朝鮮領とする書き付けを得た」との意味の供述をした安龍福についても、鳥取藩政資料に記述がある。

 安龍福は1696年、2度目の来航時、鬱陵島などの徴税官を詐称する旗を船に立てていた。藩政資料のうち「因幡志」には、その旗が子細に記されている。安龍福の来航から1世紀も後の地誌「因幡志」に記録が残ることから、同館の来見田博基学芸員は「地域にインパクトのある出来事だった」とみる。