【中国を読む】「改革開放」40周年 今後の方向は 日本総合研究所・関辰一

 2018年は中国にとって大きな節目となる年である。40年前の1978年、トウ小平の下で「改革開放」政策が始まった。これにより中国経済は大きな飛躍を遂げることができた。この節目を迎えるに当たり、改革開放政策とはどんな政策だったのか、その背景に至る経緯は、政策によって中国経済はどう変化を遂げたのか-について改めて整理した上で、今後の改革のポイントを指摘する。

 ◆計画経済の弊害

 改革開放政策とは、中国の新たな指導者となったトウ小平が78年12月に打ち出した体制転換の政策である。それまでの計画経済と社会主義を2本柱とする体制から、実質的には市場経済と資本主義を柱とした体制への転換を図ったものだ。

 なぜ、このような政策が打ち出されたのか。49年10月に成立した中華人民共和国は、毛沢東の下、計画経済と社会主義を柱とした経済体制の確立を目指した。土地や建物、機械設備などの生産手段を公有とすることによって、労働者を搾取から守ろうとした。資本家から生産手段を取り上げ、公有部門が財・サービスの生産を計画し、販売や分配も担えば、中国は目覚ましい経済成長を成し遂げられると同時に、所得格差を大きく是正できると考えられた。

 そこで、農地が個人所有から人民公社という公有部門の所有に改められ、農民は人民公社によって指示された量の農産物を生産し、納めることになった。都市部の土地や建物、機械設備は国や国有企業の所有物となり、都市労働者は政府による割り当てに従って仕事に就いた。国有企業は利益を内部留保できず、全てを国庫に納付し、逆に赤字は国家が補填(ほてん)した。

 ところが、農業部門と工業部門のいずれでも、統制的計画下で生産活動は著しい低迷に陥った。のんびり働いても一生懸命働いても、さして変わらない給与だった上、幹部の身分も固定的だった。

 このため、自ら積極的に働くのではなく、ただ定められた作業時間を過ごせばいいという風潮がみられた。国際的な孤立状態にあったことも、先進国からの産業技術や経営ノウハウの導入を困難にし、中国の経済成長の阻害要因となった。結果的には、農民と都市労働者のいずれも生活水準の向上は大きく遅れた。

 こうした状況に対し、改革開放政策が始まると、生産手段の私有が徐々に認められるようになり、生産や分配の決定における自由度が高まった。人民公社制度は廃止され、農民は肥料や農業機械などの生産手段を購入することが可能となり、農産物を政府に買い上げてもらえるようになった。農民が企業を設立して、工業製品を生産することも許されるようになった。

 都市では、国有企業は、上納利潤額などの目標を達成すれば、自らの裁量によって留保利潤を設備投資や従業員の給与に充てることが可能となり、民営化にも進展がみられた。

 さらに政府は外国企業の誘致に力を入れるようになり、民間企業の設立も認めるようになった。先進国の産業技術が導入され、自律的に仕事を進めるという気風も醸成された。改革開放政策によって、農業部門と工業部門の生産活動は大きく拡大し、人々の生活水準は飛躍的に向上した。

 ◆国有企業を強く

 もっとも、2017年10月に開かれた第19回党大会は改革開放政策の修正を印象付けるものだった。特に、国有企業を「強く、優秀に、大きく」する方針が気がかりである。むしろ、民間に任せられる分野にも国有企業が多く残り、これらの国有企業の市場退出が経済活性化、人々の生活水準のさらなる向上にとって重要だ。

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【プロフィル】関辰一

 せき・しんいち 2006年早大大学院経済学研究科修士課程修了。08年日本総合研究所入社、15年から調査部副主任研究員。専門分野は中国マクロ経済。36歳。中国上海出身。