【専欄】毛沢東、習近平と憲法 元滋賀県立大学教授・荒井利明

 中国の全国人民代表大会(全人代、国会に相当)が例年と同じく、5日に始まった。

 今年の全人代は5年任期の新しい代表による会議で、憲法の改正も行われる。改正のポイントは、国家主席の3選禁止規定を撤廃し、昨年秋の共産党大会で党規約に「指導指針」として位置付けられた「習近平の新時代の中国の特色ある社会主義思想」を憲法にも明記することである。

 いずれも習近平のための改正だが、中国の憲法に関しては、憲法規定と現実との乖離(かいり)がしばしば指摘される。例えば、憲法35条には言論の自由や結社の自由が規定されているが、これらの自由が十分に保障されていないのが現実で、言論や結社の自由を行使しようとして当局に拘束される者も少なくない。

 興味深いことに、毛沢東はその生涯において2度、憲法を持ち出して言論や結社の自由(当時の憲法では87条に規定)を主張している。

 最初は1964年12月のことで、毛沢東は憲法をわざわざ持参して党中央工作会議に出席し、憲法が保障している言論の自由を自分にも認めるよう要求したという。当時、劉少奇やトウ小平らが毛沢東に気を使って、「この会議には無理して出席しなくても」と事前に話したことに、毛沢東は「おれに出席するな、しゃべるなというのか」と反発したのである。

 毛沢東はそれから1年半後、文化大革命(文革)を発動し、劉少奇らを失脚に追い込んだ。

 2度目は文革が始まって半年後の66年11月のことで、毛沢東は党中央政治局常務委員会拡大会議で、これまた憲法を持ち出し、結社の自由を規定した条文を読み上げたうえで、他の指導者に、「労働者に結社の自由はないのか。おまえたちは憲法を読んだのか」と尋ねたという。

 この会議のテーマは、上海の労働者が結成した造反組織を認めるか否かで、労働者の自主的な組織を認めるべきではないと主張する他の指導者を批判したのである。

 ルールや制度に縛られることを嫌い、現実の政治においては憲法無視も甚だしかった毛沢東が、自分に役立つとなれば憲法を持ち出して言論や結社の自由を主張するのは、ご都合主義の極みで、滑稽でさえある。

 習近平は毛沢東とは異なり、ルールや制度を無視するのではなく、それらを自分の都合のよいように変えつつあるといえよう。(敬称略)