「水に悩まされたきた」歴史も
歴史的に見れば岡山は「水に悩まされてきた地域」という印象も根強い。天正10(1582)年、豊臣秀吉が川の水を引き込み城を孤立させた備中高松城(現在の岡山市北区高松付近)水攻めや、天正19(1590)年とする説が有力な吉井川の氾濫・大洪水で、日本刀の産地の備前長船の刀工らが大打撃を受けた歴史が知られるためだ。
近代でも明治17(1884)年には現在の倉敷市福田町古新田を高潮が襲った。また同26(1893)年には県内で423人もの死者を記録した大洪水が発生。その際、現在の倉敷市真備町地区と総社市の一部では164人が溺死したとされている(吉沢利忠著「沈む島消えた町-瀬戸内のミステリー」昭和59年、山陽新聞社)。
死傷者1万5000人を想定
地震も直接的な震源ではないが、被害が出ている。昭和21(1946)年、和歌山県潮岬沖で発生したマグニチュード(M)8の昭和南海地震では、岡山県でも死者52人、負傷者162人、建物被害は全壊1201戸、半壊2707戸にのぼり、線路の沈下や堤防の決壊、道路の損壊などがあった。
被害をもたらした要因は、地震動に伴う土地の液状化とされ、干拓地と沖積層の地域で被害が多発。噴水や噴砂などの液状化現象特有の記録が残る。
岡山県では昭和南海地震の際の津波は高さが1メートル以下で被害記録はないが、江戸時代の安政南海地震(1854年12月24日、M8.4)では、最高5メートル程度の津波が発生したとも。