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普天間返還合意25年 反対から容認へ、元宜野湾市長「あの努力は何だったのか…」

 市街地に囲まれ、「世界一危険」といわれる米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還に日米両政府が合意してから今月で25年を迎えた。同県名護市辺野古への移設を容認した元宜野湾市長の比嘉盛光(せいこう)さん(82)が産経新聞の取材に応じ、いまだ返還されていない現状に、「あの時の努力はいったい何だったのか」と言葉を詰まらせた。

 それは、苦渋の決断だった。

 平成8年4月の日米合意の3年後、11年12月に辺野古への移設方針が閣議決定され、官房長官、知事、地元首長との協議の場が開かれることとなった。

 当時は知事も、受け入れ側の名護市長も移設容認の立場だ。一方、比嘉さんは9年に革新団体などの支援を受け、「県内移設反対、無条件返還」を公約に掲げて市長に当選していた。

 公約に従い反対を貫くか、早期返還のために立場を変えるか、どちらが市民のためか悩みぬいた末、比嘉さんは容認を表明する。

 その反発はすさまじかった。革新団体のメンバーが市長室に押しかけ、市議会では傍聴席からも「裏切り者」の罵声が飛んだ。

 それでも「返還が実現すれば、きっと市民は分かってくれる」と信じ、国や県との協議に臨んだ。

 だが、具体的な建設計画などをめぐり、協議は難航する。辞職後の21年には民主党の鳩山由紀夫政権が発足。それまでの協議をご破算にし、国と県とが激しく対立するようになった。

 混乱の25年間。果たして、容認を表明した「苦渋の決断」は正しかったのか。「答えをいまは出せない」と、比嘉さんは言う。

 「返還が実現していれば、間違っていなかったと胸を張って言えるだろう。しかしいまも飛行場があり、移設反対か容認かで県民の心は二分している。このままでは死んでも死にきれない」

 比嘉さんは、唇をかんだ。(川瀬弘至)

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