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ニクソン・ショック50年 藤井裕久元財務相「来るものが来たということだ」

 1971年8月15日の「ニクソン・ショック」当時、官邸で竹下登官房長官の秘書官を務めていた藤井裕久氏(後の財務相)は産経新聞のインタビューに対し、米国がニクソン・ショックで示したドル高是正の動きは日本政府内でも想定されていたと振り返った。主な一問一答は以下の通り。

 --当時の首相官邸はニクソン米大統領の演説を聞いて相当混乱したそうだ

 「そうではあったが、佐藤栄作首相は直ちに水田三喜男蔵相に為替の対応を指示し、この問題は佐藤-水田ラインで進められた」

 --竹下登官房長官も一定の関与はしていたようだ

 「会議の調整作業くらいだ。佐藤首相は次世代を育てる意味で竹下氏を官房長官に抜擢(ばってき)した。前任の官房長官だった保利茂氏は重鎮。秘書官だった私が言うのも何だが、当時の竹下氏は、保利氏のような力はなかったし、経済政策が全く分からないし、発言力もなかった。だが、吸収力はあり、よく大蔵官僚を招いて勉強をしていた」

 --当時大蔵省の勉強会で円高の話は出ていた

 「水田蔵相は円切り上げへの流れを完全に分かっていた。大蔵省も米国の要求を受け入れないといけないという暗黙の了解があった。来るものが来たということだ」

 --1ドル=360円が308円になり、その後完全変動相場制に移行した

 「水田蔵相は308円より円高が進むと考えていた。『1ドル=308円』は日本国内がその時点で納得できる線としてまとめた政治的なパフォーマンスだ」

 --日本経済は円高の波を乗り越えてきた

 「固定相場が消えた後の日本の経済力は、政治家も企業人も含めて日本人の先輩たちが一生懸命戦ってきた努力の結果だ」

 --佐藤氏は福田、水田両氏を蔵相に起用し、重用していた

 「佐藤氏が田中角栄氏を嫌っていたのは事実だ」

 --その田中氏は、佐藤政権の懸案だった日米繊維交渉を通産相として決着させた

 「通産相秘書官の小長啓一氏を通じて、官邸にいる私に『大蔵省に行って2千億円取ってこい』と言ったんだ。繊維業者に自主規制させる代わりとして出す補償金のことで、『業界にまく金がいる。それで繊維交渉は妥結できる』と。まさに角栄方式のバラマキで解決させた」

 --ここから田中氏の力が増したのではないか

 「佐藤氏は後釜に福田氏と考えていたことは間違いない。しかし、田中氏が戦って取った。佐藤氏と田中氏は政権の引継ぎのときに握手していない」

 --「ポスト佐藤」で争った福田、田中両氏について、経済政策という視点からどちらを評価するか

 「はっきり言えば、福田氏の経済政策の方が正しいと思っている。田中さんは、とにかく恩人。(衆院選に出るときには)選挙区まで決めてくれた。それと、経済政策で評価するのは水田氏だ。今の消費税につながる付加価値税の導入を主張していた。導入していた欧州を視察し、これをやらねば日本は豊かにならないと。私は水田氏の影響を受けた一人だ」

 --ニクソン・ショックが与えた教訓は

 「経済も政治も歴史の大きな流れには逆らうことができない。そうしたことを理解している政治家を育てないといけない」

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