【飛び立つミャンマー】高橋昭雄東大教授の農村見聞録(49)

2017.10.13 05:00

 ■23年ぶりの半乾燥地農村調査(上)

 エーヤーワディ川の中流域、ミャンマーの中央部には「ドライゾーン」と呼ばれる乾燥した平原が広がっている。この地域では、一部の潅漑(かんがい)田を除き、ミャンマー農業を象徴する水稲を見ることはなく、ゴマやラッカセイが作付けされる畑地が展開している。マグエー県マグエー郡カンターレー村も、そのような乾地畑作農業地帯の中にある農村である。1994年11月、私はこの村の一農家に住み込んで、村の家や農地を歩き回って、社会経済調査を行った。そして2017年8月、23年ぶりにこの村を再訪し、当時調査した家々や耕地を訪ねてみることにした。

 ◆自力で電化

 1994年の村の総世帯数は203だったが、2017年には285に増えていた。このうち農地を保有する、いわゆる農家は109世帯から130世帯へと21世帯増加しただけだったが、農地を持たない非農家は94世帯から155世帯に61世帯も増加した。農家はほとんど増えず、非農家だけが増加するというパターンは、本見聞録でこれまで登場したミャンマーの村々と同様である。

 村に入って、こんなもの前になかった、とすぐに気づいたのが電線と水道とトラクターとオートバイだった。

 1994年当時、明かりの供給源は蝋燭(ろうそく)と灯油ランプと車のバッテリーだったが、2014年に村に電気が来た。というよりも、村人が自分たちの力で引いてきた。昨今、ミャンマー国中で流行(はや)りの「コー・トゥー・コー・タ」すなわち自力更生である。村は電力委員会を作り、180世帯から26万8000チャット(1チャットは約0.1円)ずつ集め、約5000万チャットの費用を賄った。各戸はさらにメーター取付けに12万チャット、家に引き込む電線代に11万チャットを負担した。大卒公務員の初任給が8万チャット程度のところ、各世帯は50万チャットも支出したのである。しかし、残りの100世帯あまりはこれらの費用を用立てることができず、当然今も電気が来ていない。「村の電化」と個人のそれは異なる次元の問題、というのは村内の経済格差が大きいミャンマーの村々ではよくみられる現象である。

 ドライゾーンの村々では、生きるためには電気よりも水の確保が重要である。この村には1981年に国連開発計画(UNDP)のプロジェクトの一環として井戸が掘られ、ディーゼルエンジンのポンプが導入されて、村人は遠くの池まで水汲(く)みに行く必要がなくなった。水料金を水委員会が徴収し、施設の管理に充てることにした。だが、このポンプ場から家まで水を運ぶには大きなドラム缶やそれを載せる牛車や手押し車が必要だった。これを購入できない世帯は、小さなバケツで何度も水を運ぶかドラム缶の所有者から水を買うしかなかった。また、94年には存在した水委員会は名目的なものになり、井戸とポンプの管理や水料金の徴収はこの権利を落札した個人に任された。

 ◆村中に水道

 このような中、2011年に水委員会の委員長になったテーアウン氏らのリーダーシップにより、村中に水道管を張り巡らす計画が持ち上がった。委員会は村の全世帯から計460万チャット、さらにはヤンゴンに出稼ぎに出た、あるいは移住した村人から計150万チャットの寄付を集めて、16年に村中にポリ塩化ビニールの水道管を敷設した。これによって、週に1回だけではあるが、村の全世帯の庭先まで水が来るようになった。ただし、水道料金の徴収権は以前と同様、入札に付され、11年からずっと、村で有数の大農であるアウンセイン氏が落札している。井戸とポンプに加え、水道管の保守や水の配分も彼の義務となっている。17年の落札価格は75万チャットで、水委員会がこれを年利10%で村人に貸し付けて、機器の修理代金に充てる。

 23年前、村の輸送手段は牛車と自転車だけだった。オートバイは今やどこの村でも見られるが、大型乗用トラクターが村道を所狭しと走り回っているのには驚いた。13年以降急増し、この村だけでも19人のトラクター所有者がいる。耕運機も一時期導入されたが、畑の中でしばしば転倒するので、今は全く使われていない。ただし、農作物の生育中に条間を耕起し、除草や土壌の細砕を行う中耕には牛が欠かせないので、機械が完全に牛に代替したわけではない。それにしても、貧困だといわれているミャンマー乾燥地の農村で、2000万~4000万チャットもするトラクターが次々と導入されているのはなぜだろうか? 電化や水道敷設も含めて、次回はその背景を探ってみる。

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