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だからフラガールの踊りは胸を打つ “東北のハワイ”が東京のプロを拒んだ理由

 炭鉱の空気の中で育ってきた人間が踊ることに意味がある

 「人まねをするな。すべて自前でやれ」

 そうした中村の信念は、フラガールの育成にも生かされている。

 ハワイアンセンター開業の前年、昭和40年4月に設立されて以来、半世紀を超えた現在も続く「常磐音楽舞踊学院」の存在がそれである。

 当初、フラとタヒチアンダンスを中心としたショーを連日お客に見せるという中村の構想を聞いた時、社内のすべての人間は、東京からプロのダンサーを呼んでくるのだろうと思っていた。

 しかし、ただ一人、中村の考えだけは違っていた。炭鉱の娘を集め、彼女たちを一から指導してダンスをマスターさせ、ステージで踊らせるというのである。

 とはいえ、当時はまだダンサーという職業に対して偏見があった時代だ。しかも、ここは東北の炭鉱町いわきである。「腰振り踊り」「ヘソ出し踊り」などとからかわれ、炭住の世話所を通じてダンサーにならないかと炭鉱の子女に声をかけても、

 「人前で裸になって踊るなんて恥ずかしくてできない」

 といわれ、両親からも、

 「そんなことをさせるために、娘を苦労してここまで育てたのではない」

 といわれて、けんもほろろに断られてしまい、学院の開校が迫ってきたというのに思うように人が集まらなかった。

 そんな状況を見かねて、ある人が中村にいった。

 「いわきだけから女性を採用しようとするのは、どうしても無理がありますよ。それなら東京から連れてくればいいのではないですか? 東京の女性なら芸能事に関して理解があるでしょうし、抵抗も少ないのではないかと思いますが」

 すると、中村は即座に、

 「いや、それはいかん。炭鉱人の血を受け継ぎ、炭鉱の空気の中で育ってきた人間が踊ることによって常磐炭礦の精神が生きることになるんだ。よそからダンサーを連れてきて踊らせることなど絶対にあり得ない。そんなことをするくらいなら、最初からやらんほうがいい」

 といって否定した。

 結果的に、常磐音楽舞踊学院の一期生として入学し、昭和41年1月のセンター開業時にステージに立ったのは18人。自ら志願してきた2人を除く16人が中学校を卒業したばかりの炭鉱の子女であり、中村の思惑どおり、客席まで汗が飛んでくるような彼女たちの熱演は観客たちに感動を与え、大いに受けたという。

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