日本橋架橋110年 首都高地下化で憩いの「空」復活へ
江戸時代に東海道の起点として誕生した日本橋(東京都中央区)が、明治44年に現在の石造りの橋となってから3日で110年を迎えた。江戸、東京のシンボル的な存在だが、昭和38年に橋を覆うように首都高速道路が建設され、日本橋の「空」は失われた。地元住民は粘り強く高架道路の撤去を求め、平成30年に地下化が決定、令和22年までに高架道路は撤去される見通し。80年近い時を経て、日本橋が空を取り戻す。(本江希望)
東京五輪の前年に開通した首都高は、当初は住民らに歓迎されていた。
「手塚治虫の世界みたいだと思いました。漫画の世界が現実になる。わくわくする気持ちが大きかった」
日本橋にほど近い、大正元年創業の書画用品専門店「有便堂」の代表、石川雅敏さん(68)は、小学生当時をそう振り返る。住民の間に反対運動はなかったという。しかし完成した首都高は橋を分断するように上空を大きく横切り、晴れた日も光が届かない。
「仕切りができたようなうな感じ。首都高に日本橋と書かれた看板があり、首都高を日本橋だと勘違いする人がいるということに、がっくりとしましたね」
昭和43年、地元住民や企業は「名橋『日本橋』保存会」を発足。本来の景観と街の活気を取り戻すために活動を続けた。平成23年の東日本大震災で高速道路の安全対策への意識が高まり、27、29年に行った署名活動では計約44万人が署名。地道な活動が実を結び、翌30年に首都高の老朽化による大規模更新に伴う地下化ルートが決定した。
会長の元三越社長、中村胤夫(たねお)さん(84)は「日本橋は土木と設計と装飾が一体となってできあがった美しい橋。装飾の麒麟と獅子も日を浴びることができ喜ぶと思う」と笑顔を見せた。
首都高速道路によると、地下化に向けた工事は昨年11月に着手し、今年5月10日から首都高の呉服橋と江戸橋出入口を廃止して本格的な工事が始まる。令和17年にトンネルが開通、高架道路の撤去は22年までに完了する予定。地下には地下鉄が通り、電力線や上下水道などさまざまな埋設物があることから、「針の穴を通すような計画であり、慎重な工事が必要」と長期化の理由を説明する。
中村さんは「日本橋は江戸の中心であり、老舗も多く、いまなお江戸のDNAを持ち合わせている町。空を取り戻すことで心のやすらぎ、憩いの場所になってほしい」と期待を込める。
■日本橋 徳川家康が江戸幕府を開いた慶長8(1603)年に、五街道(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として、木橋を架けたのが始まりとされる。20代目の現在の橋は石造り2連のアーチ橋で、麒麟や獅子のブロンズ像が据えられている。全長約49メートル。平成11年には国の重要文化財に指定された。