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堺の自転車の歴史、ルーツは「鉄砲鍛冶」にあり 進化する200年の技術

 堺市と聞いて思い浮かぶものは。国内最大の前方後円墳、仁徳天皇陵古墳(大山(だいせん)古墳)、戦国期の茶人、千利休、はたまた全国の料理人が愛用するという包丁か…。実は国内有数の自転車関連企業の集積地でもあった。市内には国内で唯一の自転車をテーマにした博物館「自転車博物館サイクルセンター」(同市堺区)もある。同館は来春の移転のため、11月29日から一時閉館の予定だ。同館を通じて堺に自転車が根づいた歴史をたどった。

 鉄砲から自転車へ

 同館は約200年前に誕生した自転車の複製品から東京五輪での出場を目指した最新の自転車まで、約400台を展示、所蔵する。

 そのなかから「こんな自転車が、明治の堺を走っていました」と同館事務局長、長谷部雅幸さんが紹介してくれたのは、明治時代の「貸し自転車」。見た目は現在の自転車と変わらないが、車輪部の外縁部の部品であるリムは木製で、ブレーキがない。

 当時は米国などからの輸入品が大半で、価格も「家1軒」と言われた高級品。堺を含め各地に貸し自転車店が登場し、人気を得たという。

 堺で自転車の修理部品を手がけたのが、元鉄砲鍛冶たちだ。戦国時代に鉄砲の一大産地となった堺。江戸後期まで鉄砲製造で活躍したが、製造が規制されるようになる明治以降は自転車部品にシフトしていった。

 金属を加工するという点では同じだが、なぜ鉄砲鍛冶職人は自転車部品に進出できたのか。

 「鉄砲も自転車も部品は精密で、軽量かつ頑丈にする点は同じ。規格や品質を合わせながら複数の部品を分業でつくり、組み立てる点も似ていた」と長谷部さんは分析する。「町の中で切磋琢磨していったことで、技術競争力を上げていく文化があった」。

 転機は大正3年の第一次世界大戦の勃発。自転車の海外輸入が止まると、それまで蓄積していた技術力をもとに国産化が進み、堺の自転車産業が花開く。

 輸出が活発化

 第二次大戦後の高度成長期に最盛期を迎える。国内の自転車生産量がピークとなる前年の昭和47年には、堺での生産量は完成車で20%、部品で48%の全国シェアを占めたとされる(堺輪業協会五十年史)。

 輸出も活発化し、昭和40年代後半からは「ツール・ド・フランス」など欧州の名だたるレースに出場する自転車に、堺の部品が活躍し始めた。

 海外進出で躍進した1社が、堺市に本社を置くシマノだ。ツール・ド・フランスでは7割強のチームが部品を採用。近年のコロナ禍による自転車ブームで今期も過去最高益を達成する見込みとなるなど今や世界的なメーカーになっている。

 平成4年に開館した同館も同社2代目社長、故・島野尚三が収集してきたクラシック自転車などを地域貢献に活用したいと、堺市に相談したことが始まりだ。

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