永禄10年(1567)、美濃斎藤氏の攻略を果たした信長は稲葉山城に入城し、岐阜城と改称。本城とは別に、山麓に千畳敷という居館を構えた。岐阜城下には約1万の人々が住み、商業都市が広がっていたという。城郭や城下町は、斎藤氏の時代のものがそのまま継承された。
天正4年(1576)、信長が移った安土城は、近世の先駆けとなる城郭だったと指摘されている。信長の城郭・城下町政策総決算だ。安土城下では既存の集落などを再編して、新しい城下町が作られた。楽市楽座の政策の効果もあり、人口は約6千に膨らんだ。また、正親町天皇の行幸を計画して、大手道まで作られたのである。
信長は京都を意識して何度も居城を移したが、小牧山城を除くと、交通の至便性を重視した。また、平山城を好み、すでにあった城郭や城下町をそのまま引き継いだ。その点で、安土城や城下の整備は、信長の理想形を実現しようと取り組んだと考えられる。
信長の外交政策の基本方針は、遠交近攻策であると指摘されている。この場合の外交とは、日本国内の諸大名との交渉・関係維持を意味する。外交は信長のみならず、ほかの諸大名にとっても重要な意味を持った。そして、遠交近攻策とは、文字どおり遠国と親しい関係を結び、近い国々を攻撃することだ。もともとは、中国の戦国時代に范ショ(はんしよ)の唱えた外交政策が起源である。
永禄4年(1561)以降、信長は越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄と良好な関係を結び、美濃国の侵攻を円滑に進めた。当時、上杉氏と武田氏は敵対関係にあり、川中島の戦いで、激闘を繰り広げていた。つまり、信長は敵対していた両者と親交を結ぶことで互いを牽制し、有利な立場を築いたのだ。
信長は安芸の毛利氏とも親交を結んでいたが、のちに両者の関係は破綻。その後、信長は豊後の大友氏と良好な関係を築くことにより、毛利氏を牽制した。当時、九州北部の領有権をめぐり、毛利氏と大友氏は争っていた。そのような状況を察知した信長は、大友氏と親交を結んだのだ。まさしく遠交近攻策である。
信長は、諸大名との婚姻や養子縁組を積極的に行った。妹・お市を浅井長政の妻として送り込み、また伊勢の北畠氏に信雄を、伊勢・神戸氏に信孝を養子として送り込んだのは好例だろう。このようにして同盟関係を構築し、他国侵攻の足掛かりにした。
しかし、信長の外交政策は必ずしもすべて成功したとはいえない。信長は天正元年(1573)に足利義昭を放逐したものの、直後に信長包囲網が形成され、上杉氏、毛利氏、朝倉氏などとの関係が崩壊した。また、四国政策では長宗我部氏に四国切り取りを認めながら、途中でこの方針を撤回したので、信長は苦境に立たされることになった。
当初、信長は柔軟な姿勢で外交政策を展開したが、戦争の拡大とともに強硬姿勢に転じたことにより、争乱が激化した印象は否めない。
最近の研究によって、信長の諸政策の多くは、先行する戦国大名たちの例があることが明らかにされている。信長の革新性があるとすれば、そうした諸政策の良い点を引き継ぎながら、より徹底したことだ。加えて、信長の強い個性とカリスマ性は政策の推進を大いに後押しした。しかし、一方で負の面もあるので、決して手放しで高い評価ばかりはできないだろう。
【渡邊大門の日本中世史ミステリー】は歴史学者の渡邊大門氏のコラムです。日本中世史を幅広く考察し、面白くお届けします。アーカイブはこちら