渡邊大門の日本中世史ミステリー

鎌倉幕府の無策が露呈した寛喜の大飢饉への対応

渡邊大門
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 一連の流れを考慮すると、寛喜3年の大飢饉を契機にして人身売買が常態化し、トラブルや訴訟が増加した様子がうかがえる。人身売買の緩和は、あくまで時限立法であったはずだったが、ことはうまく運ばなかったのだ。その流れは決して止むことがなく、その後も尾を引いた。

 寛喜の大飢饉を発端とする一連の人身売買の扱いを見てきたが、その後、人身売買をめぐる対応はきちんとなされたのだろうか。延応2年(1240)5月12日に制定された追加法は、和泉守護所に宛てられたもので、次のような内容である。

人身売買を禁止することは、これまで朝廷、幕府の法において定められていた。しかし、寛喜の大飢饉を契機にして、生活のために人身売買が横行し、人々が憂い嘆いても何らなすところがなかった。しかし、今や状況は好転したので、人々が違法な行為(人身売買)をすることはいわれのないことである。以後は、早く人身売買を止めさせ、延応元年6月20日の朝廷の法に任せ、市庭に高札を立てて国中に触れること。もし、違反する者がいたら、居住地と名前を報告すること。

 人身売買の禁止は和泉国だけではなく、諸国に同様の指示がなされたと考えられよう。人身売買は京都・鎌倉のような都市に止まらず、各地で行われていた。なお、延応元年6月20日の朝廷の法は、残念ながら確認されていない。前年の人身売買禁止の法令をもとに、いっそうの徹底を行ったのはたしかだ。

 こうした人身売買禁止の動きは、地方へと波及していった。仁治3年(1242)正月15日、豊後守護の大友氏は幕府に追随する形で、人身売買の禁止を徹底した。その禁を犯す者があれば、買人、売人のいずれも罪科に処するという内容のものだ。豊後以外でも、同様の措置が取れたと考えられる。寛喜の大飢饉において、例外的に人身売買を認めるということは、何かと問題を残したのである。

 対応に迫られた幕府は、寛元3年(1245)2月に至って、再度、人身売買禁止の徹底をするため追加法を発布した。その一つは、寛喜の大飢饉で養育された人々の扱いである。養育された人々とは、飢饉によって止む得ず富裕層に売られた者である。それは、次のとおり定められた。

無縁の非人については、成敗に及ぶことはない。親類などは、一期(その主人の代のみ)についてのみ奴婢として抱えることを許すが、売買してはいけないし、また子孫に相続することも禁止する。

 史料中の「無縁の非人」というのは、縁のない貧しい人、生活困窮者を示している。「無縁の非人」の場合は、通常どおりの下人として、売買や子孫に相続することが許された。これは、奴婢を財産とみなしていた従来の方針を再確認したものである。しかし、それが親族などであれば、話は別である。売買や子孫への相続は許されなかった。やはり、寛喜の大飢饉が特例であったことを示している。

 そして、幕府は改めて人身売買についての扱いを明示した。次に、その内容を提示しておこう。

御制(延応元年に定められた人身売買禁止)以前については、売主が買主に代価を支払うことによって、売買した者を受け戻すことができる。御制以後は、人身売買が禁止されており違法であるので、売買の代価は祇園清水寺の修理費用に宛て、売買されたものは仁治元年の法により放免する。

 先述した延応元年に定められた人身売買禁止の法を境にして、人身売買の扱いを定めたものだ。法の制定以後、売買の代価が祇園清水寺の修理費用に宛てられているのが興味深い。同様の例は、建長7年(1255)8月にも確認できる。人身売買によって得られた金銭は、大仏に寄進されるというものだ。「国々より運上」と記されているので、諸国からそうした金銭が集められたのである。

 寛喜の大飢饉以降、幕府は種々の対策を行ったが、それは根本的なものではなかった。結局は一時しのぎな対策にすぎず、人々は苦しみ続けた。幕府の無策を非難するのは酷かもしれないが、徹底した対策こそが政権の役割なのはたしかなことである。

歴史学者。昭和42年、神奈川県生まれ。関西学院大文学部卒、仏教大大学院文学研究科博士後期課程修了。現在、株式会社「歴史と文化の研究所」の代表取締役を務める。主な著書に『進化する戦国史』(洋泉社)『真田幸村と真田丸の真実』(光文社新書)など多数。近著に『井伊直虎と戦国の女傑たち』(光文社)。株式会社「歴史と文化の研究所」のHPはこちら

【渡邊大門の日本中世史ミステリー】は歴史学者の渡邊大門氏のコラムです。日本中世史を幅広く考察し、面白くお届けします。アーカイブはこちら

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