ラーメンとニッポン経済

1972-日本中が固唾を呑んだ「あさま山荘事件」 厳寒の山中に…湯気立ちのぼるカップヌードル

佐々木正孝
佐々木正孝

 安藤が開発を着想したのは、初の欧米視察旅行に出かけた1966年のこと。ロサンゼルスのバイヤーにチキンラーメンを試食してもらったところ、彼らは乾麺をバキリと割って紙コップに入れ、お湯を注いでからフォークで食べ始め、食後にはポイ、とゴミ箱に捨てたという。このミーティングを起点に、安藤は箸食&丼文化圏の外、フォーク&カップのカルチャーでも支持される即席麺を構想。飽和した国内市場にもくさびを打つ商品として開発をスタートさせたのだ。

 世界にまだない「カップ麺」の姿を描き、ゼロから構築していく--安藤らの歩みは苦闘の連続だった。まず、麺を入れる既存の容器がない。適当な素材すら見当たらない。試行錯誤のあげく、「片手で持てるサイズで手から滑り落ちない」発泡スチロール製容器に至ったものの、国内には一体成型を請け負えるメーカーがない。日清食品はアメリカのメーカーの技術を導入して合弁会社を設立。

 さらに、安藤が搭乗した機内で出たマカダミアナッツのアルミ容器からヒントを得て、アルミキャップによる完全密封の上蓋を開発する。安心・安全とスムーズな流通を担保すべく、安藤らは容器製造までカバーしてプロジェクトを進めていったのだ。

 未知のカップ型容器に麺を収める方法として、容器の中央に麺を宙づりにする「中間保持構造」を発明し、実用新案を登録。生産ラインでは揚げた麺の上から容器をかぶせ、それをひっくり返すという逆転のプロセスを導入した。ネーミングでは、アメリカの広告代理店に依頼し、「ラーメン」というフレーズをあえて外して「カップヌードル」と命名。パッケージデザインは大阪万博のシンボルマークを手がけた大高猛に安藤自身がオファーした。

 その結果、ラーメンの出来上がりであるシズル写真は採用せず、白と赤の明快なロゴが完成。「日の丸の白赤のバランスが日本人にとっては一番心地よい比率だ」とする大高の考えにより、色の配分は日本国旗の赤白と同じだという。かくして、半世紀近くに渡って愛され、親しまれるエバーグリーンが生まれる。

 カップヌードルという画期的な製品はファストフード、ファッションフードが押し寄せる時代にもマッチしていた。カップヌードルが誕生した1971年は、マクドナルドの日本1号店が東京銀座の三越デパートにオープンした年でもある。

 1969年から施行された第2次資本自由化により、飲食業の100%自由化が実現。1970年にはケンタッキーフライドチキン、ドムドムがお目見えしており、70年代にはミスタードーナツ、ダンキンドーナツ、サーティーワンアイスクリームといった強豪が見参。日本勢ではモスバーガー、ロッテリア、ファーストキッチンが産声を上げている。

 こうした「立ち食い上等」ファストフードの台頭に乗って、カップヌードルは発売直後に銀座の歩行者天国で試食販売を展開。最大で1日2万食を売り上げた。発売初期のテレビCMも、サイケファッションに身を包んだ若者たちがバイクのツーリング中にフォークでカップヌードルを啜るというものだったから、その戦略は推して知るべし。次世代のカップヌードルはファッションフード、カルチャーフードの一面も持って走り始めた。広告史に刻まれた「h u n g r y?」から大坂なおみの「大坂半端ないって」に至るまで、話題を撒き続ける日清食品のCMには、いまだその熱がある。

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