父の姿は誇り「私も人の役に」東日本大震災5年 岩手県の山本永都さん
更新死者、行方不明者1万8000人以上、関連死3000人以上を合わせ2万1000人を超える犠牲を出した東日本大震災は11日、発生から5年を迎えた。東京都千代田区の国立劇場では天皇、皇后両陛下をお迎えして、政府主催の追悼式が開催された。各地でも追悼行事が催され、日本中が鎮魂の祈りに包まれた。
追悼式には岩手、宮城、福島3県の遺族ら約1090人が出席。地震が起きた午後2時46分に1分間黙●(=示へんに寿の旧字体)(もくとう)し、犠牲者の冥福を祈った。天皇陛下は「困難の中にいる人々一人ひとりが取り残されることなく、一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう、これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います」と述べられた。
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「大震災で失うものもつらいこともたくさんありましたが、この5年は私を随分と成長させてくれました」
政府主催の追悼式で岩手県の遺族代表として壇上に立った宮古市出身の山本永(ひさ)都(と)さん(22)は、あの日から帰らぬ父を思い、誓いの言葉を述べた。
「住民の命守った」
消防団員として防潮堤の水門を閉めに行った最愛の父、幸雄さん=当時(49)=は行方不明に。祖父=当時(81)=も津波で亡くなった。
高校2年生だった5年前、看護師で忙しい母のヒデさん(50)に代わり、漁師の父が駅まで車で送ってくれた。「帰りに買い物へ行こう」。そんな会話をした。
激しい揺れが起き、学校の校舎4階へ避難し夜を明かした。弟や母とは再会したが、父の行方が知れないと聞かされた。祖父は遺体で見つかった。
「なぜ父が行かなければいけなかったのか」。震災直後は行き場のない思いを母にぶつけたこともあった。だが、今は違う。追悼式で「あの日、消防団員として住民の命を守ろうとした父をとても誇りに思い、尊敬しています」と語りかけた。
母に憧れたが…
震災後の悲しみの中、見つめたのはヒデさんの背中だった。母もつらいはずなのに現地の診療所で看護師として働き続け、永都さんもボランティアとして手伝った。
そんな母に憧れ、2012年4月に看護学科のある関東の大学に進学した。知らない土地での初めての1人暮らしは孤独だった。震災が話題になることも少なく、遠い国で起こった出来事のように受け止められていると感じ、周囲になじめなかった。
「何度も大学を辞めようかと思い悩みました」。3年生の6月から1年近く休学し、実家に戻って地元の友人と会ったり、診療所で働く母を見つめたりして過ごした。ヒデさんは「いろんなことが重なっての電池切れ。充電期間も必要だったね」と振り返る。
勇気持つ大切さ
「悲しみやつらさを抱えながらも夢をあきらめず、ゆっくりでもいいから前に進む勇気を持つことの大切さを知りました」。復学し再び看護の道を目指している。そして、父にこう報告した。
「住民の命を守った父の背中を胸に、いつか私も人の役に立てる人となり、努力を惜しまず前を向いて進んでいくことが、亡き父への親孝行だと思えるようになりました」
