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爆心地から約500メートルの小高い丘に立つ浦上天主堂。東洋一を誇った大聖堂は原爆で全壊したが、戦後に再建された。正面には、原爆で頭部が吹き飛ばされ熱線で黒く焼けた聖人像が立ち、街を見守っている=2015年8月9日、長崎県長崎市(松本健吾撮影) 更新 -
爆心地から約800メートルの高台に佇む山王神社の「一本柱鳥居」。爆風に対して平行に建っていたため倒壊は免れたが、片側だけになった。住宅街にひっそりと建ち、原爆の被害を後世に伝える。多くの人が見学や犠牲者の追悼に訪れていた=2015年7月31日、長崎県長崎市(松本健吾撮影) 更新 -
70年前の広島を走っていた「被爆電車」は、いまも3両が現役。そのうちの1両が原爆投下の目標地点となった「相生橋」を走った=2015年7月24日、広島県広島市中区(奈須稔撮影) 更新 -
県立広島第一高等女学校1年の大下靖子(のぶこ)さん(当時13)は、学徒動員の作業中に被爆した。救援隊によって両親のもとに運ばれ、その日の様子を両親に語り、水を欲しがった。当日深夜に死亡した(広島平和記念資料館収蔵資料「女学生のシュミーズ」大下定雄氏寄贈)=2015年7月22日(奈須稔撮影) 更新 -
浦上天主堂に併設された原爆資料室に展示されている聖人像の頭部。原爆で大聖堂は倒壊、多くの聖人像も被害を受けたという=2015年7月30日、長崎県長崎市(松本健吾撮影) 更新 -
運命の8時15分。二川謙吾さん(当時59)は、爆心地から1600メートルで被爆した。右肩から背後および頭部に大やけどを負い、8月22日に死亡した。この時計は息子の一夫さんから贈られた大切なもので、肌身離さず持ち歩いていた(広島平和記念資料館収蔵資料「懐中時計」二川一夫氏寄贈)2015年7月22日(奈須稔撮影) 更新 -
長崎原爆資料館に展示されている原爆投下時刻の午前11時2分を指したまま止まった柱時計。爆心地から南へ約2.8キロの民家で見つかった=2015年8月1日、長崎県長崎市(松本健吾撮影) 更新 -
広島県立広島第二中1年だった折免滋さん(当時13)は、爆心地から600メートルの市内の建物疎開作業現場で被爆した。母親のシゲコさんは、破壊された街を必死で捜索、9日早朝、滋さんの遺体と、遺体に抱えられた真っ黒に焼けた弁当箱と水筒を発見した(広島平和記念資料館収蔵資料「弁当箱」折免シゲコ氏寄贈)=2015年7月22日(奈須稔撮影) 更新 -
長崎原爆資料館に展示されている爆心地から約1.4キロにあった民家の板壁。熱線が直接当たっていた部分は焼けていないのが分かる=2015年7月31日、長崎県長崎市(松本健吾撮影) 更新
