高論卓説

謎多い森元首相「日台首脳電話会談」発言 李登輝氏弔問外交の波紋

 「(菅義偉首相が)何かの機会にまたお電話でもお話しできればいいということでございました」

 今月18日、李登輝元総統の告別礼拝参列で台湾を訪れた森喜朗元首相は、会談した蔡英文総統に対してこう語った。1972年の断交以来、日台は在職の指導者同士が会話を交わしたことは一度もない。それはもちろん日中関係のタブーである。

 中国は冷水を浴びせられた気分だったに違いない。菅政権実現の立役者であり、党内の後ろ盾は、自他ともに認める親中派の二階俊博幹事長。菅首相は総裁選でも日中関係の改善に意欲を示していた。中国が期待を抱いていても不思議ではない。

 中国側の反応は素早かった。「日本側に説明を求め、そのようなことは絶対に起こらないと(日本側は)明確に述べた」と外務省報道官がコメントし、すぐに火消しに動いた。

 森元首相の「電話発言」には謎が多い。台湾の通訳は森発言を一切中国語に訳さなかった。通訳は台湾側の大ベテランの蘇定東氏。この部分の森氏の発言は明瞭で、蘇氏の聞き違いはあり得ない。クリティカルな内容に耳を疑い、とっさに訳さなかったように見えるが確証はない。そもそも黒子に徹する通訳者が自らの判断で訳を控えるのだろうか。

 さらに蔡総統自身も「電話会談の予定はない」と語った。2016年に就任前のトランプ大統領と蔡総統の電話会談で台湾側は写真付きでPRに励んだことを思い出す。それに比べて、今回自らその可能性を打ち消すのはかなり不自然だ。

 いま台湾はかつてない緊張感に包まれている。中国軍機が頻繁に台湾海峡の中間線を超えて台湾領空に近づいてくる。台湾が実効支配する南シナ海・東沙諸島への限定攻撃も噂されている。これ以上中国を刺激したくないと考えたのかどうか。

 菅首相が台湾問題への知識が浅いため、過って「電話でも」と森氏に伝えてしまった、あるいは、普段から舌禍の多い森氏が勝手に話を盛ってしまった可能性も考えた。

 ただ、日本の外交当局者は「それはないでしょう」とやんわり否定した。菅首相は官房長官を長期務め、レクチャーは外務官僚から徹底的に受けてきたはずだ。森氏も老いたとはいえ首相経験者で、さすがに言っていいことと悪いことの違いは分かるはずだ。

 ビデオを見直してみると、森氏は「もう一つお伝えすることがあります。昨日朝、菅総理から台湾に行くということで電話をいただいた」と切り出し、この「日台首脳電話会談」の件を語っている。この言いぶりからして、意図的に表に出しているようだ。

 だが、もし菅首相が本気ならば、まずは内々に台湾側へ伝える話である。表に出せば実現はできないからだ。実際に電話会談をする気はないが、一種のパフォーマンスで、中国、二階氏、安倍支持の保守層、台湾にそれぞれ菅首相のメッセージを放ったという読み解きもある。騒ぎになっても、とぼければいい。

 ただ、外交にそれほど造詣が深いとはいえない菅首相がいきなりそんなリスクを冒して高度なテクニックを駆使するだろうか。

 ひと騒動起きた後、今度は日中の電話首脳会談が決まり、加藤官房長官は菅・蔡電話会談の「予定も調整の事実もない」と否定した。水面下で何かが動いたのは確かだ。

 台湾は米中新冷戦の最前線へ押し出されつつある。加えて、日米とも政権交代期を迎え、物事が大きく動きやすい環境にあり、日台関係も例外ではない。森発言が、岩盤のように硬かった「72年体制」にヒビが入る予兆になるかどうか、なお注視が必要だ。

【プロフィル】野嶋剛

 のじま・つよし ジャーナリスト。大東文化大学特任教授。朝日新聞で中華圏・アジア報道に長年従事し、シンガポール支局長、台北支局長、中文網編集長などを務め、2016年からフリーに。『ふたつの故宮博物院』『銀輪の巨人 GIANT』『台湾とは何か』『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』『香港とは何か』など著書多数。

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