「清掃の一流を目指す」 失敗から学んだ転機
―その勤務先で転機が訪れたそうですね
ある時、売り場でお客様から「メークをお願いします」と声をかけられました。私はお客様へのメークを禁じられていましたが、ほかのメークアップ・アーティストが接客中だったこともあり、つい、それを受けました。そして結果として失敗してしまいました。口紅が唇から外れてしまったのです。お客様からは睨まれるし、制服がメークアップ・アーティストと同じだったことについても、「紛らわしいわね」と言われました。悔しかった。でも同時に、仕事に取り組む姿勢と意識が、一気に高まりました。当時の感覚は今も鮮明です。
最大の変化は、自分がお客様からどう見られるのかを強く意識するようになったことです。同じ制服を着て売り場にいる以上、お客様にとっては清掃担当も、メークアップ・アーティストもその店の一員。それまでの私は、売り場の商品の設置場所も、商品名などの知識も持っていませんでしたが、「お客様から質問を受けたときに、最低限の対応はできるようにしよう」と考え方を切り替え、職場で必要な知識を蓄え、技術を習得するため猛勉強を始めました。
そのため始業時間の4時間前に店に入ってメークアップの練習をし、店頭での商品の陳列を覚え、ブランド名を暗記しました。それを毎日繰り返すうちに、今度は周囲が変わり始めました。様子を見ていたメークアップ・アーティストの女性達が、私にいろいろと教えてくれるようになりました。「一員」として認めてくれたのです。
同時に清掃の仕事にも誇りを持つようになりました。什器を裏まで磨き上げましたし、私が不在でも清掃が徹底されるための仕組みも作りました。清掃とは店内を磨くだけでなく、ブランドを磨き上げることだ。そんな自負も持つようになりました。しばらくして、スタッフが100名規模の他店舗のマネジャーになるよう言われました。清掃担当として入社して半年後の昇格でした。どんな仕事でも、与えられた仕事で「一流」を目指す意識を持つか持たないかで、その後の結果は大きく違う。そんなことを、身をもって学びました。
―その後も、変化は続きましたね
2001年に、この外資系の化粧品専門店が日本から撤退してしまいましたが、その後、派遣元の企業に正社員として雇用され、営業や人財採用、育成の管理責任者になりました。管理責任者として最年少でした。そこでも多くを学びましたが、最も強く感じたのは、多くの派遣社員と触れ合う中で「教育によって、人は変わる」ということです。「教育」への関心が高まったのは、このときです。それ以降、「教育」は私の中でのキーワードとなります。
そんな中、プロゴルファーやプロ野球選手のメンタルトレーニングコーチの第一人者、飯田明さんと出会いました。飯田さんは、東京ディズニーランドの社員研修など、一流企業の人財開発でも高く評価されている方です。私は飯田さんの下で学びたいと考え、彼の講演会後の懇親会で直接お会いしました。それがきっかけで、その後、彼が社長をつとめる会社に入社することになります。
入社して任された業務は、彼の研修プログラムを企業に導入してもらうことです。給与はフルコミッション(完全歩合)制でした。最初の8カ月間はまったく契約がとれず、給与がもらえません。これはきつかった。でも誰のせいにもできません。理由は、飯田さんは、研修を終えると100%、リピートが発生していたからです。自分が契約を取れなくても、それは会社や商品のせいではなく、自分に問題があるせいだ、と認めざるをえませんでした。
「自分が商品だ」 意識改革が生んだ成果は・・・
-どんな問題が見えてきたのでしょう?
飯田さんには「自分が商品」という自覚がありました。それが、私にはありませんでした。自分自身が商品だという意識を持ち、お客様から「君みたいな社員がほしい」と言われるまでにならないと、契約にたどり着けないのです。
そこで営業に臨む際は「ストーリー」を描くようになりました。
それまで取引がなかったメガバンクに訪問した際は、自分が重要人物であるかのように振る舞いました。30メートル先の受付の女性と目があうと、多くは間が悪いのか、あるいは恥ずかしいのか、自分から目をそらしがちです。私はニコッと笑い、堂々と歩いていくことを心がけました。そうすると、受付の方の側が視線をはずしがちになりました。
そこで名刺をすっと出し「お約束は頂いておりませんが、人事教育責任者におつなぎ頂けますでしょうか」と伝えると、たいてい、つないで頂けました。
服装も同じです。たとえばシャツの色。それまでは自分が好きな色を着ていましたが、今はいつもオーソドックスな白です。相手にどう見られるかを重視し、業種業態、職位、肩書きにかかわらず最も受け入れられる色にしました。
―相手本位のストーリーを描いてから変わったことを教えてください
目指していた「君みたいな社員がほしい」ということを、直接言われるようになりました。
印象深い出来事は、東証一部上場のある証券会社のことです。新規取引に成功し、その会社の常務とお連れの数名とで食事をさせて頂くことになりました。レストランのあるビルの1階でみなさまをエレベーターにお乗せしたあと、私自身は、目的階の4階まで階段を駆け上がりそこで待機しました。エレベーターの扉が開き、私が「お待ちしていました」と言うと、「やるね」と言っていただきました。後日「うちには数千人の営業マンがいるが、あなたほどデキる人はいない」と言っていただき、結局、全社員に研修を導入いただきました。
飯田さんの下では多くを学び、今の自分の基礎を築きました。社長になる目標を持ち続けていましたので、気持ちを抑えきれず「時期がきたので」と、29歳で飯田さんの下を卒業させていただきました。
新卒採用支援企業で営業本部マネジャーを経て、30歳になり、パチンコ業界専門のコンサルティングファームに声をかけていただき、ついに子会社の社長に就任しました。目標に掲げた「30歳までに社長になる」を、ここで実現させました。
(後編に続く)
(取材 文/産経編集センター 撮影/産経デジタル)
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