インターネット経由でソフトウエアを利用する「SaaS」(サース)の活用が広がっている。医薬品の分野では昨年9月、薬剤師による「オンライン服薬指導」が解禁され、デジタル化の流れが加速したが、薬局では薬剤師が患者に専門的なフォローをしたくても、なかなかできない事情があったという。薬を調剤する際に記載する「薬剤服用歴」(薬歴)の作成など事務作業が大変多いためだが、こうした業務の効率化に貢献したSaaS企業として注目を集めているのが、調剤薬局向けのクラウド電子薬歴「Musubi」を展開するカケハシ(東京都中央区)だ。Musubiを導入した薬局では時間に余裕が生まれ、薬剤師が患者と向き合うことができるようになったという。カケハシ代表取締役CEO(最高経営責任者)の中川貴史氏に、今後の展望とSaaS企業が果たす役割について聞いた。
「患者さんに貢献したい」
――「Musubi」を開発されたきっかけは何だったのでしょう
中川CEO:
カケハシは2016年3月に設立されましたが、社長の中尾豊は武田薬品工業のMR(医薬情報担当者=営業職)出身でした。祖父が医師、母親が薬剤師ということもあり、身近に頼れる医療従事者がいる環境で育ったようです。創業のタイミングで社長の中尾と私の2人で、400ほどの薬局の方にインタビューしました。
「今、一番困っていることは何ですか」などと、新卒の薬剤師からこの道4、50年という薬局の経営者に至るまで幅広く徹底的にお話をうかがいました。その中で感じたのは、国の大きな方向性として薬局が変わりつつある一方で、現場に目を向けると非常に重たい事務作業があり、患者さんにより良い医療価値を提供したくても、そこに時間が割けないのが現状だということです。カケハシにも20人ほどの薬剤師が在籍しておりますが、薬の豊富な知識を有しているにもかかわらず、仕事の多くは、棚から薬を取ってくる、記録を書いているという状況でした。
非常に貴重な医療資源を生かしきれていなかったのです。「患者さんに貢献したい」という強い思いをもって勉強に励む薬剤師の方がたくさんいます。日本全体の医療のあるべき姿をとらえた時に、薬剤師の果たす役割がもっと大きいのではないかと考えました。例えば、薬歴書類を書く業務。国のルールではきちんと記録を残すことが求められていますが、薬局の現場で他の業務もあるなか、記録作業だけで1日に2~3時間はかかる場合もあります。
薬局を単に「薬を渡す」という場所ではなく、患者さんが飲んだらいけないものがないかをチェックしたり、患者さんの状況に合わせて薬の分量を調整する必要があれば医師に相談したり、あるいは、薬を飲む重要性を患者さんにお伝えしたりして、薬を飲めるように支援できる場所にしていくことが大事だと思いました。
70代以降の方は本当にたくさんの薬を同時に飲む人も多く、患者さんによっては薬を飲んでいるだけで満腹になってしまうというケースもあります。ある薬の副作用が出ているのを防止するために別の薬が出て、さらにその副作用を防止するために別の薬が出て、というように処方の連鎖も起きています。
そういった状況にしっかりと介入し、薬学治療を改善していくことが薬剤師の役割として求められている中で、対物業務が非常に負担になっている。そこに時間をとられ、患者さんに医療価値を届けられていない実態を痛感したのが、開発の起点になっています。
60%以上の削減効果
――Musubiは従来の電子薬歴と大きく異なる新時代のサービスとのことですが、具体的な特徴を教えてください
中川CEO:
Musubiはコミュニケーションと薬歴記録の両面を担ったサービスで、患者さんにタブレットなどの画面を見せながら服薬指導ができます。薬局は「薬を渡す」ということから「患者さんに服薬指導していく」という対人業務が重視されるようになりました。Musubiでは、画面を見ながら薬剤師と患者さんが会話した内容を、薬歴という記録の形に置き換えられます。薬剤師があとでゼロベースから記録を書く必要がなくなりますので、業務の効率化につながっています。
いくつかの薬局で従来のやり方とMusubiを使ったやり方を比較したところ、薬歴を書く時間が60%以上削減できたとの結果が出ました。その分、患者さんに医療価値を提供する時間に充てられます。薬剤師がより良い医療を提供し、トータルで問題解決を図ることができます。薬局の役割を拡大させることに注力できるツール。それが大きな特徴です。
正確な情報に基づく適切な服薬指導も可能になります。例えば、同一の法人の薬局間で、患者さんの情報を連携させ、過去の処方履歴や薬歴を各店舗で確認できますので、複数の店舗を利用する患者さんにとっては「何度も同じことを尋ねられるわずらわしさ」がなくなりますし、安心感にもつながります。これは従来の電子薬歴にはない、クラウド型サービスならではの特徴だと思っています。
Musubiを利用していただいている薬局の薬剤師さんからは「患者さんとの会話の量と質が高まりました」とか「患者さんとの会話が増えて、地域住民に選ばれる薬局づくりができるようになりました」といった反応が寄せられています。
今までは薬剤師と患者さんのタッチポイントが“点”でした。病院や薬局でしか触れ合うことはなく、そこでいろいろと薬について説明を受けても、患者さんは全然覚えられないこともあるでしょう。
実際に、患者さんが困るのは、服薬期間中の飲み忘れや体調の異変です。患者さん自身が気づいていない薬の副作用が発生している場合もあります。患者さんが薬を飲むタイミングで薬剤師が患者さんをフォローアップできれば、気づいていない副作用に気づいてもらうこともできます。こうした丁寧なフォローアップをやろうとすると、従来の方法では患者さんの自宅に薬剤師が電話するということになります。しかし、仕事中など電話に出てもらえないこともありますし、全ての患者さんに電話するのはあまりに手間がかかってしまい、大変でした。
LINEで患者に個別フォロー
――そこで開発されたのが、おくすり連絡帳の「Pocket Musubi」ということでしょうか
中川CEO:
Pocket Musubiは、患者さんの自宅での服薬状況からフォローすべき患者さんをスクリーニング(選別)し、服薬期間中のフォローができるシステムです。まずは薬局と患者さんがSNSのLINEを使ってつながってもらいます。患者さんは薬局から提供されるQRコードをスマートフォンのカメラで読み込むだけで服用薬のデータが自動入力されます。
薬剤師の方は一度かんたんな設定を行うだけで、患者さんの服用薬に合わせた状況確認の質問をLINEで自動的に送信できるようになります。質問は、薬の飲み方や副作用、生活上の注意点などで、服用薬ごとに異なる質問が用意されています。患者さんが困りそうなタイミングで「こんな症状、出ていませんか」といった質問をピンポイントで投げかけるようになっています。
患者さんとしては「自分に合わせて質問をしてくれている」「どうして分かったんだろう」という気持ちになるでしょうし、わざわざ電話を取る手間もありません。何も問題がなければ「問題ない」という回答で済みますし、副作用の可能性などを感知すれば、薬剤師に通知が届くようになっています。患者さんから寄せられた回答を薬剤師が確認し、問題発生の可能性があると判断した場合には、LINEや電話を使って個別フォローができます。患者さんの症状の程度や詳細をヒアリングしながら、「今すぐ薬を飲むのはやめて、こうしてください」といった具体的なフォローアップができます。
これまでは、薬剤師が患者さんに電話をかけても、ほとんどの患者さんは問題がありませんから徒労に終わることも少なくありませんでした。Pocket Musubiでは、問題がある患者さんに対しピンポイントでアプローチできますので、薬剤師の労力を大幅に削減できると同時に、より多くの患者さんをフォローアップできるようになったと思います。今後は在宅医療の支援という分野にもチャレンジしていければと思っています。
――昨年9月の改正薬機法(医療品医療機器等法)の施行で、スマートフォンやタブレットを使ったオンライン服薬指導が解禁されました。在宅医療に対応したシステムやサポートはどうなっていますか
中川CEO:
改正薬機法の施行によって、薬剤師の方が薬局で薬を渡す際の服薬指導だけでなく、患者さんが薬を飲む期間中に支援するということも義務化されました。薬局ではこれまで、患者さんの目の前に薬を置いて紙を使って説明することができましたが、オンラインでは、患者さんの理解度が落ちてしまうのではないかといった問題もあります。ですが、Musubiでは画面を提示しながら患者さんのスマートフォンなどを通じて服薬指導できますので、患者さん自身の疾患体質や薬剤への理解度を深めることができると思っています。
オンライン化して利便性が向上したけど質は落ちる、ではいけません。医療の質を落とさず、理解を促すことができる環境を作ることが大切です。質や安全性をどう担保しながらオンライン化を進めていくか、ということが今後、大事な観点になると思います。
DX化で薬剤師の活躍の場は広がる
――パソコンを持たない高齢者には声が伝わりにくくなる「デジタルデバイド」の問題が指摘されて久しいですが、オンライン服薬指導では今後、パソコンやスマートフォンなどに慣れていない高齢の方の利用も多くなると想定されます。そうした方にも使いやすい設計となっているのでしょうか
中川CEO:
薬剤師の顔だけ画面に出て、いきなり薬の説明をされても理解が追い付かないと思います。薬一つ一つの注意点をしっかりと画面に表示させることで、齟齬(そご)のないように薬に対する理解をしていただける環境を作っていけると思っています。
薬局の現場をみていますと、医療への思いや知識は豊富にあるのに、それらを生かせる環境になっていないということを実感します。IT(情報技術)の力を使うことで、医療従事者の貴重な時間を、より大事な作業に集中させていくことができるのではないかと思います。医療分野のデジタルトランスフォーメーション(DX)が進むことで、医療従事者がより活躍できるようになります。そして、限られた医療資源が日本全体に行きわたることで、医療の質を上げながらも、コストは上がらないという状態をどう実現していくのか。私たちがこの分野でできる余地は大きいと思っています。
――従来の薬局向けのシステムではなく、薬剤師と患者をつなぎ、社名でもある「架け橋」の役割を担っているということかと思いますが、カケハシの公式サイトには「薬局体験」という言葉が随所にありました。この言葉にはどういった意味が込められているのでしょう
中川CEO:
「薬局体験」という言葉は、患者さんの体験と、薬剤師自身の体験も含んでいます。薬局の業務を効率化するだけでも、患者さんの体験を良くするだけでも不十分で、その両輪を回していく必要があると考えます。患者さんの体験や医療従事者の体験をトータルでとらえ、体験自体をより良くすることが必要なのではないかと。そのことを大きなコンセプトにしています。この点が多くの薬剤師の方に「カケハシ、いいね」と言っていただける要因だと思っています。
薬剤師の方は、強い思いを持って仕事をしても、どうしても、患者さんからはなかなか感謝されることの少ない「裏方」の仕事という側面がありました。患者さんに「良い体験」を提供することで、薬剤師の方が直接、患者さんから「ありがとう」と言われるような体験ができる。「この仕事をしていて良かった」と思っていただけることで、患者さんにより良い医療を提供できるようになる。そして、薬剤師の方もやりがいや意義を感じて仕事ができる。こういうループをどのように回していくかということが大事な観点なのではないでしょうか。
「共創」としてのイノベーション
――新型コロナウイルスの感染拡大を契機に、新技術で社会やビジネスを変革するDXの流れがあらゆる分野で加速しています。「ウィズ・コロナ」の時代、医療分野でのSaaSの利用はどのようになっていくと考えますか
中川CEO:
平時でも多忙な医療現場にこうした重たい負荷がかかってしまうと、医療現場としては非常に苦しい状況に立たされると思います。いかに効率的に、医療従事者がより良い医療を提供するための基盤づくりをできるかが大事です。基盤が整備されていないと、新型コロナのような大きなイベントが短期的に発生した際、現場はなかなか対応できません。そのしわ寄せを、気合いと根性で解決しなければいけないというのは非常に辛いことです。
しっかりとDXを推進していく必要があります。例えば、紙の処方箋を電子化していく。また、患者さんの情報を医療機関同士で共有できる「医療情報インフラ」を整備し、医療の質を上げていくといったことなどが重要と考えます。
――処方箋や電子カルテには高度なプライバシー情報が含まれていますが、クラウドでデータを管理する上で、セキュリティ面の対策、整備はどうなっていますか
中川CEO:
現在のクラウド技術では、データを安全に保管できる基盤が整備されています。クラウドのメリットは大きく、例えば、台風などの自然災害で薬局が水に浸かってしまった場合、ローカル(現地の薬局)にデータを保管しているとデータを喪失してしまうリスクがあります。ですが、クラウドでデータを保管することで、災害時も患者さんの過去の治療歴や薬歴を把握できます。患者さんのデータの安全性やセキュリティを担保した形で、どのように実装を進めていくかということが大事だと思っています。と同時に、患者さんにも、プライバシーについての説明をすることで同意を得ることが必要だと思っています。
――DXが加速していく中、業界に特化した「バーティカルSaaS」企業として、今後の展望についてどうお考えかお聞かせください
中川CEO:
医療や製造業、金融、農業、水産業など、従来では手が及ばなかった堅い業界にイノベーションの波が起きつつあります。これがDXそのものだと思います。バーティカルSaaSという業態は今後、どんどん加速していくのではないかと思っています。先端を行くバーティカルSaaSの分野で、カケハシはその一端を担っていると自負しています。今後も多くのバーティカルSaaSが生まれ、より良くなっていくきっかけになっていくのではないかと思います。手と手を取り合ってより良い世界を作っていく。「共創」としてのイノベーション(技術革新)が、バーティカルSaaSだと思います。
カケハシも「Musubi」を中心としながら、新しいサービスによって支援できる範囲をますます広げていこうと思っています。患者さんにとっても、医療従事者にとっても、より良いサービスの提供をアグレッシブに加速させていきたいです。
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