“家業”を2度救った元商社マン メテックスCEOの波乱万丈人生を聞く
国内企業の大半を占める中小企業が廃業危機にさらされている。後継者不足で事業承継が困難になっていることなどが背景にあり、日本経済への打撃が懸念されている。健康・医療関連用品など幅広い商品の輸入・国内販売などを手掛けるメテックスの田中昌男CEO(最高経営責任者)は、もともと大手商社マンだったが、両親の会社を再建し、さらに母親が創業、弟が継いでピンチに陥っていた会社を引き継ぎ、見事に再生、成長させた。その経験、経営姿勢は今、危機に直面する中手企業の参考になるかもしれない。田中CEOに、波乱にとんだ、これまでの道のりを聞いた。
1970年に慶応大法学部を卒業し、三井物産に入社した。
「私の子供のころ、日本はまだ貧しかった。小学校の給食は、米国の牛のえさの脱脂粉乳。それを飲まされて、まずいなと、そういう時代だった。私は両親が会社を経営していたので、まだ贅沢させてもらった方だけど、それでも絶対的に貧しい。そういう時代なものだから、商社マンになって、海外に日本の製品を輸出して、日本人を豊かにしたいと、本当にそう思っていた。私は小学校1年から6年まで大阪にいたんだけど、兵庫の芦屋まで通って英国人の銀行家の奥さんに英語を習った。大学の時は、休みのほとんどを海外で過ごした」
三井物産では、どんな仕事をしたのか。
「最初はドメスティックのセメント、建設資材。それから船の担当にしてもらった。当時の花形で、入社4年目にメッカのロンドンに行った。同期に330人いた中で2番目だった。船は相場商売。船はつくるのに2年か3年かかる。景気が良くなってモノが動くようになったら船がいる。でもすぐには船はできない。だから2、3年先の相場を見据えた営業をしないといけない。そういうビジネスの感覚があったみたいで、私はロンドンで、船の業績をあげ、かなりのやり手ということになった」
ロンドンに届いた手紙
そんな充実の日々に転機が訪れた。
「ロンドンには結局、4年いた。2年目に結婚し、双子が生まれた。船の仕事はすごく面白く、本当に楽しんでいた。そこに両親の会社の役員から手紙が届いた。その会社は繊維卸で年商100億円近くあった。でも過剰在庫で4年間赤字。父親も体調を崩していて、大変な状況になっている。迷惑をかけるかもしれないけれど、ぜひ、何とか両親と会社を助けてくださいと、手紙にはあった。両親には、贅沢させてもらったし、社員にも、かわいがられて育った。見捨てるわけにはいかない。覚悟して、三井物産を退職し、両親の会社に飛び込んだ」
立て直しはうまくいったのか。
「不良在庫をまず現金化した。キャッシュフローがないと会社は潰れるから、どんどん売った。そして1年で経常黒字にした。ところが、母親との仲は悪くなった。母親にすると、まだ仕事をやりたいのに、息子が来ていろいろ指図をする、威張っているということだった。母親は買うことが好きだった。それが、あまり買わないように抑えにかかったら、親子喧嘩みたいになった。それで、会社も黒字にしたので、離れることにした」
その後の身の振り先は?
「最初はソニーに入った。家電産業は成長すると思ったから。しかし、どうもそりが合わない。やはり、私はメーカーよりも、商社とか金融の方がいいということで、大和証券に移った。大和証券では、ニューヨークに赴任し、株を売った。ちょうど日本に対する国際的関心があったので、日本の一流企業の成長株を売った。ニューヨークには5年いて、それから日本に戻り、海外の企業や国に日本で起債してもらう仕事をした。そのころは東南アジアが発展していく時期で、そのために必要な資金調達を助けられる。月のうち20日ぐらいは東南アジアを回って、とても面白かった。けれども、米国へもう1回行ってくれという話が出てきた。ちょうど娘が中学校に進むころで、単身赴任しないといけない。私は子煩悩で、離れて暮らしたくなかった。そんなとき、米国のウィスコンシン州の駐日代表の募集が新聞に載っていた」
どんな仕事か。
「調べてみたら日本に駐在して、ウィスコンシン州の商品の輸出をサポートするというものだった。日本では海外製品が割高だったが、もっと安くすれば日本に入ってくる。そのほうが日本のためになるのではないか、そういう商売もいいのではないかと思って手を挙げた。応募は多かったが、採用が決まり、大和証券から転じた。ウィスコンシン州の駐日代表は結局7年近く務めた」
健康用品で赤字解消
“家業”に再び戻ることになったのはなぜか。
「私の母親はとてもエネルギッシュな人で、両親の繊維卸の会社とは別に、繊維雑貨の輸入卸の会社をつくった。その会社を弟が継いでいたのだけれど、バブルの時、銀行から金を借りて、投機に走ってしまった。結果、借金が膨れ上がり、私に泣きついてきた。見放すわけにもいかず、駐日代表を続けながら、弟の会社の面倒もみることにした」
どう再建したのか。
「ウィスコンシン州の駐日代表だから、ウィスコンシン州のいろいろな商品を日本に輸出してくれと頼まれる。その中に腰痛防止ベルトがあった。日本の商社に売り込んで、取り扱うことになっていたが、そこがやめたといってきた。それで、弟の会社で扱うことにした。当時はスキーが全盛で、みんなコーチについた。スキーのコーチは斜面に立って教えるので、腰痛になる人が多い。スキー板の会社に売り込んだらすごく評判が良く、爆発的に売れた。これは健康用品だということで、ほかの商品を探したら英国の枕があり、これも売れた。そのあと5、6番目に扱ったのが『ハッピードルフィンマッサージャー』というツボ押しグッズ。これが弟の会社の赤字を消した」
その後、自ら経営にあたることになった。
「ウィスコンシン州政府が日本の事務所を閉めるという話が出てきた。弟の会社も片手間ではやっていられない、もう、のめり込まないといけないということで、駐日代表はやめて、弟の会社の代表取締役に就任し、経営に専念することにした。そして、社名をそれまでの『モデナ』から今の『メテックス』に変えた。健康医療用品を扱うからメディカルの『ME』。それに祖業のテキスタイルの『TE』、エクセレントの『EX』を組み合わせる形で、『METEX』とした」
赤字を解消し、その後の事業展開は?
「当社は、他社が扱っていない輸入品を多くの人が買えるように、本国で売っているのと近い値段で売りたい、それでお客さんに喜んでもらいたいということを基本にしている。健康用品の後は、防災用品も扱い始めた。阪神・淡路大震災をきっかけに、防災用品は必要だなと感じ、バッグに防災グッズを入れて売り出したら好評で、東日本大震災後は売り上げが5割伸びた。当社の経営を引き継いでから業績はずっと黒字で、売り上げも40倍以上増えた」
今後の展開は?
「今、メーンに据えているのは、大雑把にくくると、消費者向け商品。その中でも健康関連用品。高齢化社会も意識すると、これは、まだまだ伸びる。それから、防災用品。地震を防ぐことはできないけれども、地震による災害は最小限にできる。それが防災だ。みんな普段から防災を心掛けないといけない。一緒に準備していくのが大事だと思う。今、注力しているのがカフェ事業。イタリアのペリーニ社の総代理店となり、スプーン一杯の砂糖を入れる本場の飲み方でエスプレッソを楽しめ、雑貨も売る店の経営を手掛けている。これをフランチャイズ展開し、上場を果たすのが夢だ」
自身の事業承継はどう考えているのか。
「一番いいのは会社のことをある程度知っている人間。また人材を集めるためにも、上場にこぎつけたい」
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