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64年東京五輪は「洋食文化のきっかけ」 選手村の料理人が来年に期待 (1/2ページ)

 「アジアの果てでどんな料理が出てくるか分からない」。1964年東京五輪当時、欧米諸国からこう言われた。それでも選手村の料理人は国の威信をかけ、食べたこともない外国料理作りに奮闘。その経験を生かし、洋食文化普及に尽力した。10日は64年大会の開会式から55年。来年再び東京で迎える大会に向けて、当時の料理人は「世界に日本らしい食事を発信する場になれば」と願う。(植木裕香子、写真も)

 64年大会では、必要な料理人約300人をホテルのコックでまかないきれず、一般のレストランに協力要請が出された。横浜市内の老舗洋食店「センターグリル」で修業中だった24歳のとき、選手村の食堂へ派遣された同市の洋食店経営、鈴木勇さん(79)は「期待半分、不安半分だった」と振り返る。

 大会7カ月前、駐日大使館員の妻らのレシピをもとに作成、配布された27枚の「オリンピック・メニュー」に驚いた。ブラジルの黒豆と豚肉の煮込み、スペイン風ビーフステーキ、ルーマニア風魚のブドウ酒煮…。見たこともない料理があり、「この味で大丈夫なのか」と試行錯誤した。

 中東・アジア向けの選手を担当する「富士食堂」に配属され、早い時は午前5時半から、遅くは深夜まで、1日約2万食を提供した。後の帝国ホテル総料理長で食堂を取り仕切った村上信夫氏(故人)の指導のもと、競技を終えた選手らがいつ来てもいいように、当時まだ珍しかったローストビーフやジャガイモのフライ、フリカッセチキンマッシュルーム添えなどを出した。

 朝起きると、しばらく体が動かないほど疲労困憊(こんぱい)に陥った。「調理技術や手際の良さなど一流のホテルのシェフらの仕事ぶりに触れ、謙虚に努力し続ける必要性を痛感させられた」

 あれから55年。のれん分けして開業した自身の洋食店のメニューに、選手村の食堂で作り方を覚えたポタージュを導入。料理の数は現在、80種類に上る。「当時の料理人は大会終了後、食堂で得た料理の知識や調理法を持ち帰った。それこそが、全国に洋食文化が広がる大きなきっかけになったと思う」と強調する。

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