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1964年、メダルは取れずとも気づいた“育てる重要さ” その思いはメダリストへ (1/2ページ)

 【TOKYOが変える未来(1)】

 体操にレスリング、柔道。連日の金メダルラッシュに日本中がわいた1964(昭和39)年10月の東京五輪。「お家芸」の競泳への期待は、いやが上にも高まっていた。

 前回60年ローマ大会では5個のメダルを獲得。36年ベルリン大会では前畑秀子が日本女子初の金メダリストに。「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進の記憶もまだ新しかった。

 偉大な先人に続け。五輪直前の64年4月、100メートル自由形で55秒2の日本新記録をたたき出し、代表に選ばれた後藤忠治(78)も、その期待を背負った。

 結果は100メートル自由形で準決勝敗退、400メートルリレーは4位。「水泳王国」が自国開催で手にしたのは、男子800メートルリレーの銅メダル1つのみだった。

 「悔しかったが、水泳はきっぱりあきらめました」

 引退し、会社員となった後藤。ある日、立ち寄ったプールで、五輪競泳選手団のコーチだった恩師が子供たちに水泳を教えている姿を目にした。「結果を出せなかった責任を感じ、後進を育てようとしていた」

 水泳から離れた自分と、後につなげようとする恩師。「自分にできることは何か」と自問し、行き着いたのは「多くの子供たちがスポーツに触れられる環境づくり」だった。五輪から5年。後藤はスポーツクラブ「セントラルスポーツクラブ」を設立。五輪3大会で計13個のメダルを獲得して、「鬼に金棒、小野に鉄棒」と呼ばれた体操の小野喬(たかし、88)らを迎え、水泳のほかに体操も教えるスクールを開いた。

 大人向けのフィットネス事業にも進出し、現在は全国に委託も含め約240店舗、約43万人の個人会員を抱える。今も会長を務める後藤は言う。

 「メダルを取れなかったからこそ、人を育てる重要さに気づくことができた」

 戦後の焼け野原から立ち上がり、高度経済成長まっただ中で開かれた前回の東京五輪。後藤ら、オリンピアンたちが中心となり各地に設立されたスポーツクラブは、そのレガシー(遺産)のひとつだ。

 子供への指導で、後藤は「なぜこの練習が必要なのかを理解し、自発的に取り組むようになるまで丁寧に説明する」ことを重視した。「納得しないとうまくならないし、楽しくもならない」。経験則だった。

 五輪で「世界」を知った日本。64年を契機に根を張ったスポーツクラブは、合理的な指導で子供たちに「上達する喜び」を与え、スポーツの裾野を拡大する役割を担った。

 トップ選手の育成にも寄与した。セントラルスポーツからも、88年ソウル五輪競泳100メートル背泳ぎ金メダリストの鈴木大地(現スポーツ庁長官)、2004年アテネ五輪体操団体で金メダルを獲得した冨田洋之らが生まれた。

 あれから半世紀余り。1964年を機にともった「スポーツ」の火はより強く、鮮やかに燃えている。

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