キャリア

次世代に受け継がれる技術、理論、そして情熱 聖火に魅せられ「五輪」に挑み続ける (1/2ページ)

 【TOKYOが変える未来(3)】

 高さ3メートルの飛び込み板の上。見たこともない景色が広がっていた。1964(昭和39)年10月、東京五輪の飛び込み競技。26歳で3度目の五輪に臨んだ馬淵かの子(81)を待ち受けていたのは、超満員の観衆から湧き起こる割れんばかりの拍手と、大歓声だった。

 「普段通りに飛べる状態じゃなかった。私にとっての“五輪の魔物”は観客でした」

 戦後復興を象徴する五輪に日本中が沸き、チケットは飛ぶように売れていた。「メダル確実」と期待されたかの子はこの日、日本人選手で最初に出番がやってきた。会場が静寂を保つのは無理な話だった。

 場内アナウンスが繰り返し呼びかけるが、拍手と歓声は鳴りやまない。ようやく板を踏んだとき、集中力は完全に切れていた。どうやって飛んだのか、記憶はあいまいだ。「飛んだ瞬間に『あっ、失敗したな』と思った」。メダルの夢は、事実上そこでついえた。

 引退後、かの子は指導者となり、84年ロサンゼルス五輪に出場した長女、よしの(53)らを世界に送り出してきた。東京大会から半世紀以上が過ぎ、技術も環境も飛躍的に進歩したが、日本の飛び込み界は、かの子が渇望した五輪のメダルに、まだ手が届かない。

 悲願は今、一人の少年に託されようとしている。玉井陸斗(りくと)。まだあどけなさが残る13歳は昨年、史上最年少で日本選手権を制し、東京五輪では、最年少出場記録もかかる。

 そんな玉井の傍らには、常にコーチの馬淵崇英(=すうえい、56)の姿がある。かの子が「選手の能力以上の力を引き出せる」と評する手腕で、数々のオリンピアンを育ててきた。きめ細かい指導は玉井の技術面から私生活にまでおよび、一切の妥協を許さない。

 中国出身で、かの子に素質を見いだされた崇英は、日本で指導者となる道を選び平成10年に日本国籍を取得。かの子の姓を継いだ。

 かの子から崇英、そして玉井へ。飛び込み界に息づく「馬淵」のDNAは、たしかな足取りで悲願の達成へと近づいている。

 聖火がメキシコに移った1968年。五輪出場を逃した陸上ハンマー投げの室伏重信(74)は、長いスランプの中にいた。猛練習を重ねても記録が伸びない。インターハイを2連覇し、大学でも順調に記録を伸ばしていた重信が、初めて直面した壁だった。

 もがき、苦しんだ末に、研究にその活路を見いだす。8ミリフィルムで撮影した自身やライバルの映像と向き合い、日々の歩き方から動きを「再構築」した。スランプを乗り越え、72年ミュンヘン大会から4大会連続で五輪代表入り。究極の一投を追い求め続けた。

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