キャリア

ただ1人の「被爆オリンピアン」の生きた証、孫が伝える 

 30万人以上の名が記されている広島の原爆死没者名簿にただ一人、オリンピアンが含まれている。陸上砲丸投げ代表としてベルリン五輪に出場した高田静雄。戦後は原爆症に苦しみながらも、写真家として活動した。広島への原爆投下から6日で75年。孫は祖父が生きた証しを後世に伝えている。(鈴木俊輔)

 1936(昭和11)年にドイツ・ベルリンで撮影された1枚の写真が残されている。日本選手権を6度制し、「砲丸王」の異名をとった静雄が大柄な米国人選手と肩を組んでいる1枚だ。

 「身長173センチと当時の日本では大柄でも、世界の選手と並ぶと小さかった。『ハイジャンパーか』とからかわれたそうです」

 静雄の孫で広島市に住む写真家、高田トシアキ(本名・敏明)さん(57)は話す。当時、有力選手は東京の大学に進むのが主流だったが、静雄は地元の広島を拠点にしていた。「早くに父を亡くし、家を支えなければという思いもあったのだろう」

 27歳でベルリン五輪に出場し、翌年に現役を退いた静雄は、広島を離れることなく、中国配電(現中国電力)に勤務。昭和16年12月には、かつてベルリンの地で健闘をたたえ合った米国は、敵国となっていた。

 被爆、カメラマンに

 「仕事があるけえ、これを済ませてから行きます」

 20年8月6日午前8時15分。広島市中心部の中国配電本店に出勤していた静雄はそう話し、コーヒーを飲みに出る同僚を見送った直後だったという。

 爆心地から約680メートル。鉄筋コンクリート造りの社屋は爆風に耐えたが、静雄は左肩などを負傷。「運があったんでしょう。大きなドアや金庫を動かして、同僚を助けたそうです」。学徒動員に出ていた長女を亡くし、トシアキさんの父にあたる長男の敏(さとし)さんも背中などにやけどを負った。

 戦後、静雄は写真に生きがいを見いだした。敏さんとともにカメラを手に、原爆ドームなど被爆の爪痕にもレンズを向けた。「世界に伝えないといけないと思ったんだろう」。慰霊碑を背に、外国人がほほ笑むカットが残されている。

 若きアスリートも被写体にし、陸上競技に打ち込む中高生を元選手の視点で撮影して陸上競技の専門誌に連載も持った。

 撮影できなかった東京五輪

 多くの人を苦しめた原爆症はオリンピアンの体も少しずつむしばんでいった。自宅で床に伏せることが増え、東京五輪を目前に控えた昭和38年12月、原爆症に脳梗塞を併発し、この世を去った。自国開催の五輪を楽しみにし、望遠レンズも購入していたという。

 東京五輪では、ベルリンでともに日の丸を背負った選手団長の大島鎌吉(故人)が、ポケットに静雄の遺影を忍ばせて入場行進に参加した。

 静雄は、トシアキさんが1歳の時に死去しており、直接の記憶はない。それでも静雄が愛用した1954年モデルのライカを今も使い、残されたネガの整理を続けながら、各地で展覧会を開いている。

 被爆75年となる今夏。新型コロナウイルスの感染拡大という予期せぬ事態に直面し、東京五輪は延期となった。

 「祖父は戦争で中止になった五輪も知っている世代。平和な世の中で開かれる五輪に強い思い入れを持っていた」。孫は思いをはせ、こう続けた。

 「祖父は苦しみや悲しみの中でも、希望や明るい未来を撮ろうとした。大変な世の中だが、祖父の写真からそれらを感じてほしい」

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