社会・その他

第二次大戦中に葬られた列車脱線事故 75年後に慰霊碑除幕

 第二次大戦中、さまざまな大事故や災害などが「軍事機密」を理由に秘匿された。兵庫県加西市の旧国鉄北条線(今の北条鉄道)で起こった列車の脱線転覆事故もその一つだ。多数の死傷者を出した列車事故として報道されたものの、原因や経緯などは闇に葬られた。当時最新鋭の戦闘機「紫電改」が墜落した際、線路に損傷を与えたため起こった事故だったからだ。操縦士や列車の乗客ら12人が死亡し、62人が重軽傷を負う大惨事だった。(小林宏之)

 米軍による空襲が本格化し、沖縄上陸も間近に迫った昭和20年3月31日。試験運転をしていた海軍の新鋭戦闘機「紫電改」が午後4時過ぎ、北条線網引(あびき)駅近くの畑に墜落した。操縦士は不時着しようとした際、後輪を線路に引っ掛け、ねじ曲げてしまった。間もなく満員の乗客を乗せた列車が現場を通りかかり、脱線転覆事故が起こったのだ。

 当時、駅近くの自宅で農作業をしていた藤原昭三さん(91)が振り返る。「上空で飛行機のエンジン音が繰り返し聞こえては消え、おかしいなと思っていたら、『ドドーン』と腹の底をえぐるような轟音(ごうおん)が響き渡った。麦畑の方へ急いで走ると、あまりに無残な光景に息をのんだ」

 紫電改の機体が畑に突っ込み、大破していた。それだけではなく、紫電改が曲げた線路は枕木を付けたまま1メートルほど宙に浮き、そうとは知らずに突っ込んでいった列車が脱線。横倒しになった機関車に、折れ曲がった客車が乗り上げていた。

 藤原さんら駆け付けた住民は、犠牲者の搬出や負傷者の救出に当たった。「生死不明のケースを含めて数え切れない人を、急ごしらえの担架やリヤカーなどを使って近くの公会堂に運んだ」。公会堂には遺族や負傷者の家族も詰めかけ、婦人会も炊き出しを行うなど作業は深夜に及んだ。

 北条線沿線では、昭和18年に姫路海軍航空隊の鶉野(うずらの)飛行場が開設され、隣接して軍用機の組立工場もあった。紫電改の試験飛行による事故が当地で起こったのは、そのためだ。当時16歳だった藤原さんは飛行場内の工事を請け負う会社で働き、北条線に乗って通勤していた。

 「事故の犠牲者や負傷者には海軍関係者や飛行場関連の労働者もいた。私はあの日たまたま欠勤していたが、本当なら乗っていたかもしれない列車だった」

 事故を伝える記事を載せた新聞が、藤原さんの手元にある。「戦況でも大地震でも『機密事項だ』などとして情報統制されていた時代。『紫電改』も軍人の犠牲者も登場しない、ごく小さな記事だが、事故の発生を載せただけでも歴史に残る意義がある」

 事故から75年を迎えた今年3月31日、事故現場となった線路脇で、慰霊碑が除幕された。北条鉄道や事故の遺族関係者らが建立し、出席者が「列車事故殉難の碑」と刻まれた碑に手を合わせた。

 長らくベールに包まれていた事故。生存者や藤原さんのような目撃者が事故について語ったり文章に残したりするようになったのは、ここ20~30年のことだという。

 「鶉野飛行場がなければこんな惨事が起こることもなかったとも思うが、自分にとって鶉野は、人生の一部といえる大きな意味を持つ場所だ」と複雑な心境を吐露する藤原さん。自身が慰霊碑を訪れたことはないが、「形だけの合掌ではなく、戦争について平和について考え続ける機会にしてほしい」と願っている。

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