キャリア

漬け物販売が転機、一代で財を築いた豪商のインフラ整備事業に学ぶ

 江戸の豪商で土木家の河村瑞賢(ずいけん、1618~1699年)は、13歳で伊勢国から江戸に出て、一代で財を成した。徳川幕府の命により実施した治水事業で人工河川を掘削すると、その川「安治川」は、大型商船が小型船へ荷物を積みかえたり、大小の船が行きかったりして賑わった。瑞賢は商都・大阪の礎を築いた一人である。(上坂徹)

 商都のにぎわいづくり

 「難波の津は、海内秀異(かいだいしゅうい)の大都会にして、諸国の賈船(こせん、商船)、木津安治の両川口に船首(みよし)をならべ、いかりを連ねて、ここにも諸の荷物をひさぎ、繁盛の地いふばかりなし」

 江戸時代後期の滑稽本「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)は、大坂のくだりで安治川周辺のにぎわいを記している。

 大阪湾と市街地を結ぶ水路で港湾機能も持った安治川の建設は、大坂の水運業を大きく発展させ、商品取引の活発化も促した。安治川工事から160年後に出版された摂津国(大阪府北中部・兵庫県南東部)の名所を絵と文章でつづった地誌「摂津名所図会」(寛政10年発行)にも、安治川のにぎわいが描かれている。

 もともとは治水対策として、淀川の水をスムーズに大阪湾に流せるようにしようと企図し、障害となっていた九条島を開削された安治川だが、放水路としてだけ機能したわけではなかった。

 大阪湾からの大型商船は、安治川ができるまで、湾岸の別の河川の河口やその沖に停泊し、小型船に荷を積みかえて蛇行する河川を経由して、大坂市中に荷を運んでいた。手間も時間もかかっていたが、安治川ができたことで、船は河口の港湾で荷をおろし、中小型船に積み替えて、そのまま川を通って堂島川や土佐堀川といった市街地の川に入ることができるようになった。

 時間は短縮。堂島川などの岸壁では、船を横付けして荷降ろしができることなどから、米や特産物を扱う各藩の出張所兼倉庫である倉屋敷が次々と建てられた。

 車力から財をなす

 13歳で伊勢国から江戸に出た瑞賢は、車両を引いて荷物を運ぶ車力(しゃりき)などをしていたが、ある時、品川の岸辺に、精霊に供えたものとみられる瓜やナスが大量に捨てられて漂流しているのを見つけた。拾い集めて漬物にして販売すると大人気になり、漬物屋を始めた。

 次は、その販売先だった建設現場で、作業監督の役人と知り合ったのをきっかけに、土木作業員の頭として働くようになり、その後、自らも土木工事を請け負うようになったという。

 併せて材木商をしていたが、明暦3(1657)年、江戸で大火災(いわゆる「振り袖火事」)が起きて、市街の大半を焼き、死者十万八千人という未曽有の被害が出たとき、復興需要を見込んで、木曽(長野県)におもむいて、山林を大量に買い占めることに成功。それを売却して巨額の利益を得た。

 そうした資金で本格的に土木建築請負業を始め、幕府や各藩の公共事業を受注するようになったという。

 瑞賢は幕命による貞享元(1684)年からの治水事業で、安治川の開削のほかにも、多くの治水対策工事を行っている。

 瑞賢の事業を詳細につづった儒学者で政治家の新井白石の「畿内治河(ちか)記」によると、大坂の町にめぐらされている掘の拡幅を行ったほか、岸には岩岐(がんぎ、石の階段)を設けて上り下りを楽にしている。工事した堀は総延長約45キロにも及んでいる。貯水能力を高めて、洪水時にも溢水(いっすい)をしないようにするのが目的だった、という。が、平時を考えると、舟運に使われている堀の整備だったともいえる。

 堂島川では浚渫(しゅんせつ)工事を行い、すくいあげた土砂などを使って沿岸を整備。強固な石垣をめぐらしてもいる。また、当時は淀川の下流で分流し、海に注いでいた中津川(現在は廃川)があったが、その合流地点での水流調整工事を実施している。

 川に石を詰めたかごを沈めて、水量を調整するが、そのさい、中津川ではなく、淀川に多く水が流れるように調整している。舟運に使われている淀川の水量が当時、少なくなる傾向があったことから、多く流れるようにしたという。

 こうした工事はもちろん治水目的ではあったが、多分に、海運・舟運を意識したものだったように見える。

 大坂は古来、淀川による舟運の恩恵を受けてきた。年を経るに従い、河川ルートを拡大させ、大坂の経済を支えてきた。海運も重要だった。

 博物館「大阪城天守閣」の宮本裕次・研究副主幹(日本近世史・地域史)は「安治川の開削は、水害対策ではありましたが、大坂の市街に近いところに海から続く水路を通し、港を造った。いわば、都市インフラの整備で、大坂の海運や経済に大きな貢献をしました」と話している。

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