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「日本で最も独創的な経営者」 阪急電鉄・小林一三が日本で最初に配ったもの (1/3ページ)

 阪急電鉄をはじめとする阪急阪神東宝グループの創始者、小林一三は独創的な経営者として知られる。作家の福田和也さんは「阪急電鉄の前身である鉄道会社の経営を委ねられた際、事業展開を記したパンフレットを作成し、大阪で配って宣伝した。これぞ彼の面目躍如というべき企画だ」という--。※本稿は、福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)の一部を再編集したものです。

 世界的にも類例のない、独創的な経営者

 近代日本の経営者、財界人のなかで、最も独創的なのは誰だろうか--。

 明治以来、あまたの財界人が澎湃(ほうはい)と登場した。松下幸之助、渋沢栄一をはじめとして、岩崎弥太郎、益田孝、中上川彦次郎、原三渓、松永安左衛門……。

 それぞれが強力な個性をもち、価値ある事業を作り上げた人物だが、こと独創的ということになると、評価は難しい。

 彼らは欧米の経営者たちが作り上げたビジネス・モデルを真似て、わが国の文化、風土に馴染むように手を加え、適合させた。資源も金もないわが国を、一流の工業国、貿易国にした、先人たちの偉業は尊敬に値する。とはいえ、その「偉業」が輸入品であり、コピーであり、模倣品だったということもまた、否定できない。

 そんな中で、只一人、世界的にも類例のない、独創的な経営者と、正面から呼ぶことができるのが小林一三である。

 現在、鉄道のターミナルと百貨店を結合するのは、ごく当たり前のことだ。今日では一般化したこのモデルを世界で初めて創始したのが、一三である。一三はさらに沿線にサラリーマン向け住宅を建てて分譲し、阪急電鉄の終点に宝塚歌劇劇場など娯楽、観光施設を建てている。百貨店、鉄道、不動産、娯楽という事業は、たしかに個別には存在していたが、その要素を緊密に結びつけた一三は、やはり「天才」の名に値する企業家といえるだろう。

 一三は電力事業や製罐(せいかん)、製鋼、化学産業にも関わっている。映画、演劇といったソフトから、重工業にいたる、事業のレパートリーの広さは、やはり絶後と、言うべきだ。第二次近衛内閣の商工大臣、幣原(しではら)内閣の国務大臣兼復興院総裁として、二度、閣僚を務めている。

 数え年三歳で家督を継ぐ

 小林一三は、明治六年、山梨県北巨摩郡韮崎町に生まれた。その名前は、誕生日が一月三日だったことに因(ちな)んだという。小林家は富農で、農業だけでなく、酒造や生糸などを手広く商っていた。母のいくは家つき娘であった。甲州でも一、二と言われた豪農の丹沢家から婿として甚八を迎えて、一三を産んだが、産後、半年にして病死し、父甚八は、実家に戻った。

 その後、甚八は、甲州の酒造家、田辺家に婿入りし、七兵衛と改名している。甚八改め七兵衛は、田辺家に四人の男子をもたらした。長男の七六は、衆議院議員となり、中央電力、日本軽金属の社長を務め、次男宗英は、後楽園スタヂアムの社長、三男の多加丸は、日本勧業銀行の理事になっている。

 つまるところ、七兵衛の息子たちは、いずれも一廉の人物となったわけだ。一三は数え年三歳で家督を相続した。跡取りであったため、周囲からの羈絆(きはん)を受けることなく、野放図に振る舞っていたという。

 韮崎の小学校を卒業した後、当時、地元では最も先鋭的で英語、数学を教授する、八代の加賀美嘉兵衛の成器舎の寄宿生となったが、翌年、腸チフスに罹り、休学を余儀なくされている。

 文学に夢中になった慶応義塾大学時代

 明治二十一年二月、一三は、上京し慶應義塾に入学し、当時、塾監の任にあった益田英次(鈍翁益田孝の弟)の家に下宿した。慶應在学中、一三は演劇と文学に耽?した。坪内逍遙が『小説神髄』を発表し、尾崎紅葉、山田美妙、二葉亭四迷、幸田露伴ら、明治文壇を担う豪傑たちが澎湃として登場していた頃である。

 一三が昂奮するのも無理はない。しかも一三の慶應における保証人であった高橋義雄(箒庵)は、書肆金港堂と懇意で、みずからO・ヘンリーの翻訳を手がけていた。保証人が先を切って文学の道を歩んでいるのだから、一三が勇みたつのは当然のことだろう。

 高橋は、時事新報の記者になった後、三井銀行に入った。一三は文学への志を捨てがたく、当時、文芸新聞として名を馳せていた都新聞の記者を目指したが--当時、新聞の連載小説の執筆は記者の領分だった--、同社の内紛により果たせず、結局、高橋の斡旋(あっせん)で三井銀行に勤めることになった。

 三井銀行時代に財界の巨頭たちと出会う

 明治二十六年、一三は、十等手代月給十三円という身分で、日本橋室町の三井銀行本店に勤務することになった。初めに配属されたのは、秘書課だった。

 毎週一回、三井財閥の最高決定会議である仮評議会が、本店三階で開かれる。総本家の三井八郎右衛門、三井高保、中上川彦次郎、益田孝、三野村利助、渋沢栄一ら、お歴々が集まった。

 一三の仕事は、その席で茶や弁当を配るくらいのものだったが、財界の巨頭たちの議論に、直接触れることができたのは、貴重な体験であった。

 同年九月、一三は大阪支店に転属となった。兄貴格の高橋が呼んでくれたのである。転勤に際して秘書課長から「大阪に行くと必ず悪いことを覚える」と注意されたが、その通り、すぐに遊里に通い始めた。

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