日光東照宮外伝

    家康公の墓所 遺体はどこに もう一つの遺言

    徳川家康公はどこに眠っているのかをめぐり、日光東照宮(栃木県日光市)と久能山東照宮(静岡市)の間で論争が続いている。通説では、家康公の死去後、久能山東照宮に葬られ、1周忌が過ぎてから日光東照宮に移されたとされる。近年、「久能山東照宮に家康公の遺体がある」という説が地元・静岡で盛り上がり、これに対し、今秋発行された日光東照宮の社報「大日光」で〝反論〟が掲載された。家康ファン必読のミステリーを追った。

    日光東照宮の宝塔。家康公の墓所とされる=栃木県日光市(鈴木正行撮影)
    日光東照宮の宝塔。家康公の墓所とされる=栃木県日光市(鈴木正行撮影)

    徳川紀伊和歌山家譜

    「家康公の遺体の所在について、今の状況では久能山か日光かを断定できない。ただ、祭祀(さいし)・法要の論理や関係者の動きなどを踏まえると、遺体は日光に移されたと考えるよりほかないように思う」

    大日光に寄稿した大阪大学大学院の野村玄准教授はこう考える。

    野村氏は令和元年10月、「徳川家康の神格化 新たな遺言の発見」(平凡社)を出版した。家康公の遺言は闘病の過程で変わっており、最期の遺言はこれまで知られていたものと異なる内容であったことなどを明らかにした。

    これまで知られていた遺言とは、家康公に仕え、主に寺社行政に携わった僧侶、以心崇伝が記した「本光国師日記」で、家康公が元和2(1616)年4月17日に75歳で亡くなる間際に側近を集めて残したと伝えられている。「(遺体を)久能へ納め、葬礼を増上寺に申し付け、一周忌も過ぎた後、日光山に小さな堂をたて、勧請(かんじょう)せよ」。勧請とは、分身・分霊を他の地に移して祭ることであり、この言葉をそのまま読めば、家康公は自らの遺体を日光に祭るよう遺言していない。

    ただ、家康公が別の遺言を残していたとしたら、ご遺体は日光に移されたことになる-。過去の研究では有効な史料が出てこなかったが、野村氏は「二代将軍徳川秀忠、以心崇伝、天海(僧侶、家康公の側近)の共通認識として家康公の遺言があったのでは」という仮説を立てて史料を再検討し「徳川紀伊和歌山家譜」における記述に着目した。

    記述によると、家康公の遺言は久能山に「3年とどまり」、その後日光に「改葬」する、とのことだった。しかし、病気がちの秀忠は、自身がおそらく3年もたないと思われるから、(家康公死去の翌年にあたる)元和3年に日光へ改葬したいと思う、という趣旨だった。

    これまで知られている歴史的過程とは異なるものだ。この家康公の〝もう一つの遺言〟は研究者らから重視されず、歴史上の重要事件の概要とその関連史料を列挙した「大日本史料」でも、参考として掲げるなど、取り扱いに苦慮していたようだ。

    符合した2つの史料

    その後、野村氏は国立公文書館に保存されていた尾張徳川家の初代藩主、徳川義直によって編まれた「御年譜」の草稿本(下書き)にも、もう一つの遺言と同じような記述を発見した。遺言したとされる日は、従来の「4月2日か3日」より後の4月7日だった。

    徳川御三家のうち、尾張と紀州の両家でそれぞれ継承された史料で符合した家康公のもう一つの遺言。野村氏は「新たに発見された遺言によれば、家康公は自らの死後3年後の日光への改葬を命じていたことになる。自戒の念を込めて、後世の私どもは『本光国師日記』を史料的に信用しすぎてきたのではなかろうか」と述べた。

    運ばれる柩に近づいた

    一方、久能山東照宮のお膝元、静岡市では、令和になって「家康公の遺体は日光に移されていなかった」と指摘する本が相次いで出版された。

    「余ハ此處(ここ)ニ居ル 家康公は久能にあり」(令和元年12月初版、静岡新聞社)では、著者の興津諦氏が、久能山東照宮の落合偉洲宮司が各地で講演してきたさまざまな内容を下地に、史料などを丹念に当たって積み上げた説を展開した。

    また、2年4月初版の「謎解き⁉ 徳川家康の墓所」(著者・桜井明氏、静岡新聞社)によると、江戸時代は「死」という穢(けが)れの主体である遺体は、人々から隔離されてきたという考えを紹介。家康公の柩(ひつぎ)が久能山から日光に運ばれたときの行程を記した史料などから「柩に遺体が収まっていたとした場合、本来なら柩に人々を近づけることはしないはずなのに、逆に多くの人が集まっている」との疑問を呈している。

    久能山東照宮では、家康公がなくなって24年後の寛永17(1640)年になって大きな石の宝塔の墓(神廟)が造られた。毎年4月17日の命日には、徳川宗家の当主が装束をつけて二礼二拍手一礼でお参りをする。こうしたことも、久能山に家康公が眠っているとの根拠とされる。落合宮司はいくつかの事例を挙げ、「ご遺体が埋葬されているのは久能山」と断言した。

    ちなみに、家康公の墓所、または供養塔と伝えられている場所は、善導寺(福岡県久留米市)や南宗寺(大阪府堺市)など十近くあるという。戦国時代の混乱を制して天下人となった家康公は、平和の時代が続くよう自らの神格化を望んでいた。どこに眠っていても、家康公の思いは現代の私たちに届いている。(鈴木正行)

    日光東照宮の奥宮(おくみや)(墓所)】 拝殿、鋳抜(いぬき)門、宝塔からなる。当初は木造だったが、石造に改められ、五代将軍綱吉の時、現在の唐銅製となった。宝塔は八角9段の基盤の上にたち、高さは約5メートル。国指定重要文化財。

    久能山東照宮の神廟】 本殿の後方にある廟門より約40段の石段を登った所にある。当初は木造だったが、寛永17(1640)年に三代将軍家光により現在の石造に建て替えられた。高さは約5・5メートル。国指定重要文化財。


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