敬語を話すとき、人は何を意識しているのか。放送大学の滝浦真人教授は「この50年ほどの間に『~させていただく』を使う頻度が増えた。その背景には、丁寧な自分は見せたいけれど相手に触れることはためらいがあるという、今どきの日本人の心理が隠れている」という――。
※本稿は、国立国語研究所編『日本語の大疑問』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
人間関係と同じように言葉にも距離がある
店員さんから「確認させていただいてもよろしいですか?」なんて言われると、目が点になります。日本語の乱れでしょうか
「させていただいてもよろしいですか?」という言い方はずいぶんと長たらしくて丁寧ですね。「ポライトネス」という用語があります。“言葉で表される対人配慮”といった意味なので、ご質問は「接客場面におけるポライトネス」に関わるものと言えます。
人間関係に遠い関係と近い関係があるように、言葉にも遠い言葉と近い言葉があります。たとえば、敬語は遠い言葉、いわゆるタメ語・ため口は近い言葉の典型です。人はそれらを人間関係に応じて使い分けたり、それらで人間関係を変えたり(調節したり)しますし、時に、使い方が相手の気持ちに沿わず不愉快にさせてしまうこともあります。
ポライトネスの観点からすると、コミュニケーション場面では、ちょうどよく感じられるポライトネスもあり、人間関係を動かすポライトネスもあり、はたまた、しくじるとインポライトネス(失礼)になってしまうこともある、という話です。そして、接客場面というのは、お客さんからお金を頂戴することもあって、ポライトネスについて最も繊細に気をつかうケースの一つと言えるでしょう。
お店によって店員の言葉遣いが違うワケ
服を買いに行くとします。お店によって、
「いらっしゃいませ、どうぞご自由にご覧くださいませ」
と言われるだけのこともあれば、いつのまにか近づいてきていた店員さんから、
「そのパーカー、すごくいいですよね! 私も色違い持ってます!」
などと、いきなり親しげに具体的なコメントをされることもあります。大まかに言って、対象年齢層が高めで価格も高めなほど前者の傾向に、年齢層が低めで価格も抑えめなほど後者の傾向になると言えそうです。敬語をはじめ丁重な言葉遣いの前者は遠い言葉、踏み込みが強くて「ね」で共感に訴えてくる後者は近い言葉を使っていると言えます。
「いらっしゃいませ、こんにちは~」は遠近両用
遠い言葉は、相手になるべく触れないようにすることで、かしこまった丁重さを表現するのに向いています。反対に、近い言葉は、積極的に相手と触れ合うことで、うちとけた親しさを表現するのに向いています。
コンビニなどから始まり、あちこちで聞くようになった店員さんのあいさつ言葉に、
「いらっしゃいませ、こんにちは~」
というのがあります。奇妙なあいさつですが、じつはこれも言葉の遠近で説明できます。「いらっしゃいませ」は丁寧なあいさつで、初めてのお客さんにも安全に使うことができます。それに対し、「こんにちは」は本来知っている相手に使うあいさつです。
この2つを並べて一度に言うのは、まずは丁重なあいさつで迎えておいて、それで(一応この場での)人間関係ができたと見なし、知っている人への親しいあいさつを重ねるという、“遠近両用”のストラテジー(作戦・戦略)と見ることができるのです。