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「鎌倉殿の13人」でも注目 誰も見たことがなかった三種の神器の神秘性とは

天皇位の象徴である三種の神器には、古来より多くの神秘的なエピソードがある。三種の神器とは、八咫鏡(やたのかがみ:神鏡)、草薙剣(くさなぎのつるぎ:宝剣)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま:神璽)のことであり、皇位継承の証として、代々の天皇に伝わった宝物である。即位の儀式などでは、欠かすことができないアイテムだった。

※画像はイメージです(SankeiBiz編集部 mitsuhiro masuda)
※画像はイメージです(SankeiBiz編集部 mitsuhiro masuda)

そして、その神秘さゆえに、たとえ天皇であっても三種の神器の実物を見ることができなかった。しかし、「見てはならない」と言われると、なおさら見たくなるのが人間の心理でもある。では、今までに三種の神器を見た者は、いるのだろうか。

藤原実兼の手になる『江談抄』は、平安後期の文人官僚である大江匡房の晩年の談話を筆録したものである。同書には、冷泉天皇(在位・967~969)が神璽の箱を開こうとしたときのエピソードが記録されている。

あるとき、関白・太政大臣を務めた藤原兼家が参内し、冷泉天皇の所在を女房に尋ねたことがあった。女房は、「天皇は夜の御殿にいらっしゃいます。今、御璽(神璽が納められている箱)の紐を解こうとされています」と答えた。冷泉天皇は病気がちで、精神的な病を抱えていたといわれていたので、兼家は何か胸騒ぎを覚えたに違いない。

兼家はすぐに御殿へ入ると、案の定、冷泉天皇が御璽を手にしていた。兼家は、今にも御璽の紐を解こうとする冷泉天皇の手から奪い取ると、元のごとく結び直した。御璽は、青色の絹製の布で包まれており、紫の糸で結ばれていたという(『禁秘抄』)。間一髪のところで、三種の神器の実見はなされなかったのである。

こうした話は、まだある。鎌倉時代初期に成立した説話集『古事談』(源顕兼編)には、三種の神器にまつわる陽成天皇(在位・876~884)のエピソードを伝えている。陽成天皇もまた、乱行の多いことで知られた天皇だ。

あるとき、陽成天皇が邪気によって、精神状態が尋常でないことがあった。突如、陽成天皇は「璽の筥(神璽が納められた箱)」を開いた。すると、箱の中から白雲が沸きあがり、驚いた陽成天皇は投げ捨てたという。陽成天皇は内侍(女官)を呼び、「璽の筥」を紐で結ばせ、事なきを得たのである。

ちょうど龍宮城から戻った浦嶋太郎が、「決して見てはいけません」と言われた玉手箱を開き、その煙によって老人になった説話を髣髴とさせるものがある。この逸話が事実であるか否かは疑わしいとしても、三種の神器の神秘性を物語っており、決して人の目に触れてはいけないことを示唆している。

以上のエピソードは、天皇が三種の神器を実見しようとした例である。三種の神器は皇位継承の証だったが、天皇ですら実際に見ることが叶わなかった。となると、他の人々に関しては、言うまでもない。2人の天皇に共通するのは、精神状態が不安定だったことで、通常の精神状態であれば、三種の神器を見ることはなかったのだ。

では、天皇ではなく、一般人が実見に及んだことがあったのか。平安末期、安徳天皇を奉じた平家一門は、強奪した三種の神器とともに西海に没落した。平家一門が安徳と三種の神器を奉じたのは、その権威に頼ろうとしたからである。実はこのとき、三種の神器が一般人の目に触れかかったことがある。次に、その事例を紹介することにしよう。

寿永2年(1183)、平宗盛に率いられた平家一門は、安徳天皇(清盛の娘徳子と高倉天皇の第一皇子)と三種の神器を奉じて、西海へと落ち延びていった。しかし、その後の平家の戦いは芳しくなく、元暦2年(1185)に壇ノ浦(山口県下関市)で決戦を迎えることとなった。ここでも平家の敗勢は濃く、いよいよ最期という段になった。

「もはやこれまで」と覚悟を決めた二位尼(清盛妻・平時子)は、帯で安徳天皇をわが身に縛り、宝剣を腰に差し、神璽を脇に挟んで海中に飛び込んだ(『源平盛衰記』)。その際、神鏡は身に付けていなかったようである。


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