小仲正久 日本香堂ホールディングス会長兼CEO(4)
トップの素顔■「毎日香」譲り受け 全国区へ転機
終戦直後、焦土と化した中で、父、正規は「お線香は大当たりする」との読みがあったのか、すぐさま「職工100人大募集」との手書きのビラをまいて従業員を集め、再スタートを切ります。戦死者らの弔いもあって、父の読み通り、お線香を作れば端から売れ、増産体制を整備するのに忙しく立ち回っていました。
私たち子供は、戦前から夏休みには、神奈川県の葉山の御用邸近くの一軒家を夏中借りて、避暑にいっていました。住み込みのお手伝いさんや、家庭教師と一緒に行き、海で泳いだり、昼寝したり、勉強したり、夜は花火をしたりしていました。
終戦後もしばらく夏はそこで過ごしていましたが、父は一段と多忙を極め、土曜日の夜遅く来るくらいでした。日曜日に海岸で一緒に遊んで、慌ただしく帰京していました。
◆緊張の対面に同席
1947(昭和22)年、日本香堂にとって画期的な出来事がありました。堺に本社があった名門、鬼頭天薫堂からお線香の「毎日香」、お香の「花の花」の有力ブランドを譲り受けたのです。毎日香は全国ブランドで、花の花も中東に輸出され、王族らにとても高価で取引されていました。同社は優れたアイデアで開発を重ね、その調香技術は天才的とまでいわれていましたが、後継者難と戦後の混乱で生産が途絶えていました。
このとき私は11歳。父に連れられ、満員の寝台車に乗って京都に行き、その商標権の移譲シーンに同席しました。記憶はあいまいですが、お互いが向かい合ってこたつに入り、しばらく無言のまま、ぴりぴりしたエネルギーがぶつかり合うような情景だったことは脳裏に焼き付いています。
鬼頭勇治郎氏がじっと父を正面に見据え、こう言ったと、後から聞きました。
「小仲さん、あなた個人に毎日香を譲りたい」
大阪には孔官堂をはじめ、多くの有力な線香メーカーがあるにもかかわらずです。東京中心の父とはそんなに親しい間柄ではなかったはずですが、父の商売一筋の姿勢を評価されたのでしょう。この商標権は、しばらく父の個人所有でした。
◆芝居で経緯再現
なぜ、小学生の私を連れて行ったのか、父に聞くことはしませんでしたが、おそらく後継者育成の一つとして計画的に立ち会わせたのだろうと思います。
このときの経緯は、後にわが社の稲坂良弘氏が「夜明けの歌-毎日香物語」との芝居に仕立てました。主役の鬼頭氏の役は山口崇氏、勝呂誉氏や宮園順子氏らも出演しました。
親会社である大阪の孔官堂は「松竹梅」と「仙年香」という全国ブランドを持っていました。東京孔官堂は関東地方だけの安価な「蘭月」というブランドでしたが、ブランドの所有権は大阪の孔官堂が持ち、東京孔官堂は生産と販売をすることで生計を立てていました。そこに全国ブランドの「毎日香」という武器が手に入ったのです。大きな転換点となりました。
ただ、「毎日香」のヒットは、孔官堂のシェアを奪うことにもなります。毎日香がどんどん売れるに連れ、孔官堂と父の東京孔官堂との溝が次第に深まっていき、のちのち大きな騒動の火種となってしまうのです。
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