小仲正久 日本香堂ホールディングス会長兼CEO(5)

トップの素顔

 ■「銀座らん月」開業で現金収入確保

 1950(昭和25)年、父、正規は「銀座らん月」を設立しました。戦後すぐに東京の本拠地として銀座3丁目に借りた土地に2階建ての本社を建て、その1階で始めた洋食店です。現在も同じ場所で、すき焼きなど日本料理店として営業しています。

 銀座中央通りを挟んだ向かいに8階建ての百貨店、松屋銀座本店があり、GHQ(連合国軍総司令部)がPX(Post Exchange)として接収していました。米軍基地内の売店のことで、アメリカの軍人や家族以外、立ち入ることができない場所でした。目の前の松屋にアメリカ人がどんどん入っていくのを見て、父は洋風の食堂をやろうとひらめいたのでしょう。銀座に「オリンピック」という洋食店があったのをヒントにしたのだと思います。松屋の接収は1952(同27)年で終わると、「すき焼きらん月」と、日本料理に切り替えました。

 お線香を扱いながら、その一方で料理店を始めたのは、事業を安定させるために現金収入を確保するためでした。戦後は誰もが満足に金が払えるような状況ではないことに加え、お線香は原料を仕入れて製造し、販売して、その売り上げが現金になるのは半年から1年もかかりました。料理店は日銭が入りますから、安定したキャッシュフローとして魅力的だったのです。

 ◆実物の牛使い広告

 父はビジネスに関してはアイデアマン。戦後、銀座には体の前後に広告の看板をぶら下げ、チャプリンの服装をして歩く人間広告「サンドイッチマン」が人気者となっていたのですが、「銀座らん月」のオープンに合わせて、実物の牛を使うことを思いつくのです。そのチャプリンに牛の綱を引かせて銀座中央通りを練り歩いたのです。新聞雑誌でも取り上げられ宣伝効果は抜群でした。

 店では品評会で優勝した牛を振る舞い、京都から芸妓(げいぎ)数人を出張させてお客さまのもてなしをするなど店の人気は上々で、半年前から予約でいっぱいでした。父は話題作りがとてもうまく、猪突(ちょとつ)猛進型ですが、平身低頭、誰からも好かれる性格でした。

 2階建ての本社は銀座中央通りから、裏側の道路まで一画あり、細長い造りでした。日本料理店に切り替えたとき、その細長い鉄板ぶきの平屋根に端から端までうなぎの絵を書かせました。道を歩く人は見えない。けれども向かいの8階建ての松屋や近所の高いビルからは良く見えるのです。うなぎの寝床で、うなぎが食べられますよ、というアピールを松屋などの来店客に見せていたのです。天才的なひらめきがありましたね。

 ◆両親ともに終電帰り

 父は朝から午後2時ごろまでお線香の商売をして、それから「銀座らん月」を取り仕切っていました。母の三重子も朝、子供たちの弁当を作ってから、午後に「銀座らん月」に出勤して、閉店まで働いていました。

 母の実家は兵庫県の城崎温泉で菓子店「みなとや」をしながら土産店も営んでいました。旅館でもてなすお茶菓子などを作っていましたから、母はお店で切り盛りしたり、お客さんをもてなしたりするのは、苦にならなかったのでしょう。もちろん、一日中動き回り、くたくたに疲れたと思います。

 帰路は両親そろって終電でした。毎夜、有楽町駅で最終電車に乗る両親の姿は「山手線終電車の名物」と、創業時代のエピソードとして語り継がれています。東京會舘で両親の金婚式を開いたとき、このことを絵コンテにしてスライドを上映しました。母は涙していました。あるとき、母が「吹けば飛ぶようなお線香を商って、よくぞここまで」と社員に語りかけてくれたことがうれしかったですね。100歳まで長生きしてくれました。思い出深い母の実家の羊羹(ようかん)は、私はいまも来客用の茶菓子や贈答に使ったりしています。