小仲正久 日本香堂ホールディングス会長兼CEO(12)
トップの素顔■第2の創業へ 孔官堂と決別
昭和40(1965)年、東京孔官堂に、苦渋の決断が迫られました。17年に独立をしていたものの、大阪の孔官堂が親会社であり、東京孔官堂の主力商品「蘭月」は孔官堂が独占商標権を保持していました。22(1947)年に鬼頭天薫堂の鬼頭勇治郎氏から「毎日香」を譲り受けたものの、当時はまだ「蘭月」のシェアが売上高の7割を占め、圧倒的でした。
孔官堂は東京孔官堂に対して全株を引き渡せ、もしも拒否するようなら、「蘭月」の製造権も使用権も認めない、という要求でした。「蘭月」が製造できないと経営難に陥るのは避けられません。孔官堂は東京孔官堂の全経営権を奪還することが目的でした。
◆若手は反発
だんだんと東京孔官堂が勢いを増して28(1953)年に日光工場(栃木県)、34(1959)年に日光分工場、38(1963)年に昭島香料加工工場がそれぞれオープンし、右肩上がりの成長を遂げていたことが、孔官堂との亀裂の原因でした。判断は分かれました。40代、50代の幹部らは「蘭月」を止められたら成り立っていかない、株を渡せばこれまで通り、売り上げは変わらないのだから、孔官堂の要求をのむしかないとの姿勢でした。これに対して、20代の若手を中心に「理屈が合わない、おかしい。断固、断るべきです」と反発の声が上がってきました。
父、正規は苦慮していました。孔官堂に丁稚(でっち)奉公で入りながらも、温かく育ててもらい、独立を許してくれた親です。親に矢を向けるわけにはいきません。しかも、正規の姉が孔官堂の幹部に嫁いでもいました。恩情と義理があります。かといって、ここまで自らの才覚で成長させた東京孔官堂を言われるままに手放すこともじくじたる思いが募ります。
情に厚い父は相当に悩んでいましたが、ある意味、達観していたのかもしれません。父は「みんなで相談しろ、その答えで私も決済する」と幹部に委ねました。
次第に若手の強硬路線が強まっていきます。29歳だった私も同意見でした。ここで孔官堂の要求をのんだとしても、いずれ同じ事態が起きないともかぎらない、退路を断つしかない、とも考えました。父は、こう最終決断をしました。
「これからは若い人の時代だ。この会社を動かしていく若い人たちの決断を尊重しよう」
孔官堂と手を切り、完全分離・独立を決めた瞬間でした。ベテランの反発が予想されましたが、父が決済すれば決着、不満は残らなかったと思います。むしろ、みんな吹っ切れて感無量だったのではないでしょうか。
◆吹っ切れ感無量
翌日、孔官堂との交渉の場に、父とともに私も同席しました。父はほとんど口を開きませんでした。要求を拒否する理由として、孔官堂から分離して完全独立する、とは言わないでくれ、とくぎを刺されていましたので、私から「東京孔官堂の株の半分は、お得意先が持っており、私たちの判断だけで決められません、お得意先には納得されていないところも多くあります」と話しました。
17(1942)年当初19万5000円だった資本金は、関東のお得意先が5万円、10万円とお持ちいただいていました。東京孔官堂の将来性はもとより、正規の経営姿勢を高く評価してくれたからだと思います。そのお得意先の持ち分が過半数ありましたから、実際に全株を譲渡するのは物理的なハードルがあったのです。
穏やかに別れましたが、孔官堂はずいぶんと不服だったと思います。まさか、売り上げの7割を占める「蘭月」を切り捨てるとは想定外だったのかもしれません。この日が、わが社の第2の創業となりました。ところが、すぐさま前途には幾重もの苦難の道が待ち受けていました。
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