小仲正久 日本香堂ホールディングス会長兼CEO(13)

トップの素顔
東京工場焼失後、仮建屋を訪問する父、小仲正規氏=昭和40年代

 ■「青雲」の戦い 父の築いた信頼が支えに

 大阪の孔官堂から完全独立を決めたことから、お線香の「蘭月」の製造・販売ができなくなり、売り上げの7割が一夜にして消滅することになりました。逆に業界ナンバーワンの孔官堂が競争相手として大きく立ちはだかることになったのです。

 私は役員会で決定したとき、腹をくくっていました。はい上がるため、手をこまねいているわけにはいきません。その夜、みんなで話し合って新商品を出すことを決めていました。新ブランド、新パッケージに切り替え、社長以下、社員一丸となって昼夜を問わず必死に印刷、梱包(こんぽう)、出荷までこぎ着けました。そして1カ月もかからず誕生したのが「青雲」です。

 父、正規は画家の伊東深水氏らに顧問になってもらっていましたが、そのころ在籍していた画家の峰岸義一氏が「青雲の志」から名付けて、パッケージも日本一の富士山に青い雲をデザインしてくれました。

 ◆甘くない現実

 1965(昭和40)年9月8日、ホテルオークラで関東の代理店などお得意先600人を招いて新製品発表会を開きました。気持ちは総決起集会です。「今後は青雲の名でお願いします」と訴えました。壇上には主だった卸店が上がり、応援演説をしてくれました。「これはいけるぞ」と手応えを感じていると会場から、そのころ大ヒットしていた岸洋子の「夜明けのうた」の大合唱が始まったのです。伴奏もなく、自然と。感激で胸がいっぱいでした。

 しかし、現実は甘くはありません。昨日まで売っていたブランドが、今日はライバルとなったのです。お得意先の反応は分かれました。無理もありません。孔官堂が製造、販売する「蘭月」を待っていれば、これまで通りになじみの商品が売れるのです。ここで、あえて東京孔官堂の新商品「青雲」に賭けるかどうか。「蘭月」に流れた代理店もありました。

 最初、「青雲」は予想以上に売れましたが、3カ月後、孔官堂による「蘭月」の販売がスタートすると、「青雲」の売り上げがばったりと止まりました。業界ナンバーワンで伝統もある孔官堂が東京で知名度のあった「蘭月」を売り始めたわけですから、代理店は大阪についたほうが安泰です。「青雲」は返品の山。こたえました。

 営業社員はもとより、工場や事務所関係の社員らも、休日返上で販売店に出向き、事情を説明して回りました。そのおかげもあって、徐々に関東を中心に盛り返すことができましたが、やはり大きかったのは父の存在でした。父が脈々と築いたお得意先との信頼関係が大きく貢献してくれました。

 私の立場は製造部長でしたので、生産体制の維持が大きな課題でしたが、職人らは「青雲」へのシフトを黙々と受け入れてくれました。ただ、淡路工場には協力業者がおり、名義上は孔官堂の下請けになっていました。彼らは「蘭月」から「青雲」にシフトするには、原料を東京から運び、出来上がった製品は東京に運ばなければなりません。

 私が淡路に飛び、懸命に説明したこともあり、数社、離れていきましたが、ほとんど混乱なく継続してくれました。

 ◆東京工場が全焼

 ところが、一難去ってまた一難。「青雲」発売からわずか3カ月後の65(同40)年12月、池袋の東京工場が全焼したのです。私はその時、日光工場にいましたので、池袋に駆けつけましたが、もはや手の施しようがない状況でした。「青雲」で巻き返しを図ろうとしていた矢先です。生産は半減、茫然(ぼうぜん)自失たる状況でした。が、日光工場を昼夜二交代制にしてフル稼働させ、文字通り、生産現場は死力を尽くして、復活に向けて取り組んでくれました。