出遅れた日本、迫る中韓 産業と連携「勝機は必ずある」
AI新時代米ワシントン。桜の季節を迎えた4月、数百人の医療関係者らが参加するイベントが開かれた。
「がんに関連する300冊の学術誌と200冊の教科書、1200万ページの文献を読もうとすれば医学生なら眠りに落ちる。でもワトソンはそんなことがない」
米IBMのバージニア・ロメッティ最高経営責任者(CEO)が同社の人工知能(AI)「ワトソン」の優位性を語ると、会場に笑いが広がった。
がん治療の世界では、医師個人が最新の知識をすべて把握することはほぼ不可能である。また、がんの症状は患者によってさまざまで、個々の患者にどのような治療を施すかの判断は担当医の経験に負うところが大きい。
IBMが描くのは、ワトソンによる「深層学習(ディープラーニング)」で過去の膨大な実例から治療法と治癒の度合いの関係性などを見つけ出し、そこに最新の研究成果を加味し、個々の患者に対する最適な治療方針の選択肢を医師に示すという未来だ。
IBMは2010年以来、ワトソンやビッグデータ分析の分野に計150億ドル(約1兆6000億円)を投資してきた。「大量のデータから学んで答えを導き出す」機能は医療だけでなく、商品の売り上げや金融市場の動向分析から、料理レシピの開発まで幅広く応用できる。こうしたサービスを企業向けに提供することで15年には180億ドルの収入を得た。
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今年2月、そのIBMに激震が走った。ワトソンの企業向け事業部門を率いるステファン・プラット氏の辞任が報じられたのだ。プラット氏は昨年10月に約2000人を擁する同部門のトップとなったばかり。辞任後の今年3月には自らの人工知能関連企業「ヌードル・Ai」を立ち上げ、IBMに反旗を翻した。
“離反”の背景にあるのは人工知能ビジネスの成長性だ。プラット氏は「人工知能の活用は今後3~5年間で各企業にとって最も重要な差別化要因となる」と市場拡大に期待する。
米調査会社IDCによると、人工知能の活用が可能なビッグデータ分析の関連市場は毎年20%超のペースで成長し、19年には世界で486億ドルに達する。この成長市場にIBMやグーグル、マイクロソフト、アマゾンなど大手のほか、新興企業も競争に加わり、群雄割拠の様相を呈している。
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「米国企業が年間1兆円を超える巨額の研究開発費を投じて覇権を争っているのに対し、日本は出遅れた第2グループの中団だ」
人工知能学会の松原仁会長はこう解説する。先頭を走る米国の背中は遠く、後ろでは第3グループの韓国や中国がひたひたと追い上げている状況だ。
危機感を抱いた日本政府は今年4月、研究開発の司令塔となる「人工知能技術戦略会議」をようやく創設した。「非常に厳しい状況の解決は喫緊の課題。産官学一体で実のある研究に取り組む」。初会合で議長の安西祐一郎日本学術振興会理事長はこう決意を語ったが、その展望はまだ見えない。
今年3月、米グーグルの人工知能「アルファ碁」が世界トップ級の韓国人プロ棋士を相手に成し遂げた歴史的な勝利は、日本でも反響を呼んだ。
「私たちが初めて人間に勝つつもりだったが、先を越されてしまった」。動画サイトを運営するドワンゴの山川宏人工知能研究所長は悔しさを隠さない。世界最強の囲碁ソフトを開発すると発表してから、わずか約1週間後に味わった“敗北感”だった。
トヨタ自動車は今年1月、米国に人工知能研究の新会社を設立。5年間で10億ドルを投資すると発表した。日本企業としては最大規模の投資だが、米企業と比べると小粒の印象はぬぐえない。東京大の松尾豊特任准教授は「日本企業は伝統的にものづくりを重視し、ソフトへの投資に消極的な傾向があるためだ」と背景を分析する。
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人工知能の発展には人材も欠かせない。海外では既に獲得競争が過熱している。2013年3月、米グーグルは人工知能の第一人者、カナダのトロント大のジェフリー・ヒントン教授が設立したベンチャー企業を買収、研究室の大学院生2人も獲得した。
米紙ニューヨーク・タイムズによると、スタンフォード大で情報処理を学ぶ大学院生が、ある企業から年俸100万ドル超での就職を提示されたケースもある。
日本は人工知能の研究者が少ないわけではない。米国を中心とする国際学会の会員が5000人以上なのに対し、日本の人工知能学会も約4000人に上る。ただ、産業技術総合研究所の辻井潤一人工知能研究センター長は「人数だけではだめだ」とくぎを刺す。社会を激変させる研究には、欧米のように社会の未来像まで描ける人材が必要と強調する。
国は出遅れを挽回するため、新たな体制づくりを急いでいる。文部科学省は今年4月、理化学研究所内に「革新知能統合研究センター」を新設。国の戦略会議と連携して人材育成や産業との橋渡し、従来の縦割り行政では困難だった他省庁との合同研究に取り組む。
センター長に就任した杉山将東京大教授は「欧米の後追いではなく、世の中を変える革新的技術を作り、フロントランナーを目指す」と意気込む。
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日本に勝ち目はあるのか。人工知能学会の松原仁会長は「ネット上の情報蓄積を収益に結び付けたグーグルやフェイスブックのビジネス手法は曲り角を迎えており、そこに日本のチャンスが生まれる」と話す。
人工知能はネット世界での展開が飽和し、自動車や医療など現実世界の産業との連携に移行しつつある。日本の得意分野を生かすことで突破口が開けるかもしれない。国立情報学研究所の喜連川(きつれがわ)優所長は「日本は人工知能の基礎になるビッグデータ分野で世界をリードしてきた。その強みを生かせば勝機は必ずある」と指摘する。
政府は人工知能を成長戦略の柱と位置付け、今年度から始まった第5期科学技術基本計画の重点に掲げた。あらゆる産業構造に変革をもたらす人工知能。その荒波をどう乗り越えるかは、日本の産業競争力を大きく左右しそうだ。
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この企画は青木伸行、伊藤壽一郎、海老沢類、黒田悠希、小雲規生、田辺裕晶、寺田理恵、花房壮が担当しました。
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