「副社長の頃が楽だった…社長しんどい」 重責解放されたシャープ高橋氏の3年間

 

 台湾・鴻海(ホンハイ)精密工業による総額3888億円の出資が完了した段階で、経営再建中のシャープから高橋興三社長が去る。液晶事業への過剰投資で経営危機に陥る中、平成25年に社長就任。社内改革を期待され、最初の年こそV字回復の道筋をつけたかのように見えた。だが、創業100年の関西の名門家電メーカーは外資の手に渡る。その結果を見るだけで高橋氏を単純に評価することはできない。高橋体制の3年間は波乱に満ち、その足跡をたどると先の見えない「会社経営」の難しさをうかがえる。「社長がこんなにしんどいとは思わなかった」。就任直後につぶやいた一言が思い起こされる。(織田淳嗣)

 最初は気迫に満ちていた

 「ご心配なく、『サラリーマン役員』はここから去ることになります」

 6月23日、大阪市西区のオリックス劇場で行われたシャープの株主総会。厳しい質問が相次ぎ、高橋社長自ら自虐的にこう言い放った。「サラリーマン社長では再建できない」という株主の指摘に対する答弁だった。会場にはかすかに乾いた笑いが起きたが、すぐに静まりかえった。

 高橋氏が議長を務める最後の株主総会で、株主からの風当たりは当然のごとく厳しいものだった。ただやり過ごすばかりの高橋氏の顔は幾分むくんでいるようで、就任した3年前の精悍(せいかん)さはうかがえなかった。

 平成25年6月25日。高橋氏はその年の株主総会後の取締役会で正式に社長に就任した。当時、シャープは液晶事業への過剰投資などが原因で経営危機を迎えてはいたが、高橋氏の表情は気迫に満ちていた。

 24年から社長を務めた奥田隆司氏はリーダーシップを全く発揮できなかった。液晶への過剰投資で経営が傾く中で、コンサルタントを複数雇いながら判断には踏み切らず、右往左往するばかり。さらなる事態の悪化を受け、会長の片山幹雄氏(現・日本電産副会長)の引責辞任が決まり、奥田氏に「あなたもやめるべきだ」と詰め寄り引導を渡したのが高橋氏だった。さらに4代目社長の町田勝彦氏を経営陣から完全に排除。歴代3社長による「三頭政治」と揶揄(やゆ)された体制を一掃した。

 また、企業風土改革に取り組み上司を「~さん」で呼ぶなどの「さんづけ運動」に取り組んだことも好感を呼び、社内には高橋氏への期待が高まっていた。

 1年目は、経営面での明確な成果もあった。シャープは25年度末に企業年金の積み立て不足1200億円の負債計上を迫られ、債務超過に陥る手前だった。新たに株式を発行して市場からお金を集める「公募増資」を、2020年東京五輪決定のタイミングを機に仕掛け“ご祝儀的”に無事約1400億円の資金を得た。実際には単なる「延命措置」ではあったが、高橋政権の評価を上げる要素となった。

 また、事業にも追い風が吹いた。太陽光事業は、固定価格買い取り制度でパネルの需要が高まり「バブっている状態」(元幹部)となり黒字に転換した。液晶は、中国で成長の最中にあったシャオミ(北京小米科技)に対する売り込みに成功。看板商品である高精細な「IGZO(イグゾー)」が売れた。フル稼働すれば世界中のスマートフォンのパネルが作れてしまう、諸刃の剣となっていた亀山第2工場(三重県亀山市)の稼働率が軌道に乗り、この年最終損益で115億円の黒字を確保した。前年度に5千億円以上の赤字を計上したことに比べれば、劇的な回復にも見えた。

 2年目、社内に「気の緩み」?

 ただ、これらの事業は市場環境に左右されやすく、その成功は一過性のものに過ぎなかった。液晶、太陽光とも市場環境自体が変動の大きい産業なのである。その液晶、太陽光事業のリストラに踏み切れなかったことが、経営危機の再燃につながっていく。

 もうひとつの経営の“地雷”となっていたテレビ事業への判断も甘かった。26年7月に行われた取材会。売却が再三検討されていたメキシコのテレビ工場について問われると、高橋氏は「今もうかっているのに、売ったら株主代表訴訟起こされます」と答え、売却しない方針に転じた。

 結局、翌年にこの工場は中国企業に売却することになる。テレビが売れたり、売れなかったりという中で経営判断が揺れ、場当たり的であったことをうかがわせる。

 就任2年目には、社内に「気の緩み」を感じられる地面も散見された。

 26年9月、亀山第2工場を報道陣に初公開した。経営を圧迫する“現場”でもある工場の公開は、液晶でライバル関係にあったジャパンディスプレイ(JDI)への「勝利宣言」でもあった。JDIは茂原工場(千葉県茂原市)の生産ラインの立ち上がりがうまくいかず、上半期決算ではシャープに軍配があがっていたのだ。当時の担当者の1人は「うちのラインがなぜ(JDIに)勝てたかを見てほしい」とまで言い切っていた。

 同年12月には、4年ぶりにメディアを招いた役員懇親会を開催。シャープの液晶の強みについて、自慢げに語る役員たちの姿があった。

 ただ、すでにこの頃、足もとには火がついていた。中国ではJDIが新型液晶で猛追。シャオミに食い込み、シャープはシェアを落としていた。現地メーカーも技術力を上げる一方、市場全体がスマホ一巡の一服感から減速局面に入ったのだ。「中国で液晶がコンペティティブ(競争環境)」と見るやシャープ株を空売りしたヘッジファンドもあった。

 そんな兆候に気づかないまま、シャープ首脳は、つかの間の宴を楽しんでいたのである。

 次第に沈黙するように

 26年の年末から27年年頭にかけ深刻な事態が表面化し、経営危機の第2ラウンドが始まる。

 シャープは27年5月、再度の中期経営計画を策定。金融機関からの2千億円規模の金融支援、減資、本社売却と言った再建策が打ち出されたが、肝心の液晶は温存したままだった。この時の記者会見で高橋氏は「液晶がなければ、再建計画は成り立たない」とまで言い切った。

 ところが、舌の根も乾かぬわずか2カ月半後に行われた27年4~6月期の決算会見で、高橋氏は「液晶の分社化検討」を表明。再建の柱が早くも折れた。

 経営が迷走する中で、3千人規模の希望退職が行われ、自主退職も相次ぎ人材の流出が深刻化。こうした中で、トップは次第に沈黙するようになっていった。

 高橋氏は一体何を守りたいのか。液晶なのか、従業員なのか、シャープの看板なのか。昨年秋の夜回り取材で質問をぶつけた。

 「高橋さんは今、何を守りたいんですか?」

 「そんな難しいこと聞かんといて。僕は橋下徹(前大阪市長)ちゃう。聞かんといて」

 ここで橋下氏の話題を持ち出すこと自体、意味不明である。報道陣とは、質問をはぐらかすばかりの不毛なやりとりが続くようになった。

 やがて事態は、液晶事業にとどまらずシャープ本体への出資=経営の禅譲へとつながっていく。もはや、シャープの経営そのものがシャープ単体ではコントロール不能となっていたことの証左でもあった。

 副社長の頃が楽だった

 紆余(うよ)曲折を経て、シャープは鴻海からの出資、子会社化が決まり、今は振り込みを待つばかりとなっている。

 決して高橋氏だけに経営責任があるわけではない。町田氏の社長時代に液晶の拡大路線がとられ、片山氏の時代に堺工場への巨額出費で経営が傾いた。それに対して、奥田氏はリストラ以外の策を打ち出せず、高橋氏は応急処置は行ったものの抜本的な処置には踏み切れなかった。4代にわたる社長の複合的な失策が今日の事態を招いた。

 今年5月の決算会見。「シャープの歴史の中で何が間違いだったと思うか」との質問に対し高橋氏は、「野球の解説者のようにあれがいかんかったとは言える。だが、自分がそこに身を置いたらどうだったかを考えなくてはいけない」と前置きした上で、次のように語った。

 「その時に身を置いている人間からすれば正しくても、後からすれば間違いということがある。結局は、成功し続けなくてはいけない。一つ大きな失敗をしたら全部ふっとぶ。非常につらい。『何が間違いだったか』に答えられる人はいない。それが私の本音でございます」。まさに、偽らざる本音であろう。

 運の要素も多分にある。日本電産の永守重信会長兼社長は記者団に対し、「リーマン・ショックや超円高がなければ、シャープは6兆円企業になっていたかもしれない」と語っている。経営は一寸先は闇だ。ただ、その責任を負わなければならないのが経営者でもある。

 「副社長の頃が楽だった。社長がこんなにしんどいとは思わなかった」。25年8月のある日、高橋氏自ら記者につぶやいた言葉である。その重責から解放された今、何を思うのだろうか。