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“遊技”の進化に挑む 藤商事の50年■“常識の壁”に挑み独創性追求して50年
□代表取締役会長 松元邦夫氏
藤商事は戦後、『じゃん球遊技機』を専門に開発・製造するメーカーとして産声を上げました。創業の人である藤原満州夫氏は既存の価値観にとらわれず、常に新たな魅力の創造にこだわり、藤商事を独創性あふれる「ものづくり企業」へと育んでいきました。
◆数多くの“業界初”
この姿勢は遊技機の開発にとどまらず、1957年には業界で初めて遊技機のリース販売を開始。使っていただくパチンコホール様の利便性を考慮するとともに、70年代に新たな事業の柱として開発・製造をスタートさせたアレンジボールの販売に際しては、これまで立位での遊技が常識であった市場に対し椅子の導入を促すなど、市場全体を俯瞰し、ファンの皆様がより遊びやすい環境の構築に尽力しました。なお、藤原氏が遊技業界に残したエポックメイキングは多岐にわたり、1000円札を100円玉に両替する紙幣両替機も発明の一つとして知られています。
もちろん、コアである遊技機開発においては、飽くなき探究心を背景に数多くの“業界初”を生み出してきました。とりわけ斬新な試みとして、遊技機へのマイクロコンピューターの搭載が挙げられます。これにより各種作業を自動化し、かつてないレベルで快適な遊技を実現しようとしました。残念ながら、藤原氏の生前に完成させることはかないませんでしたが、会社として開発を継続。逝去から約1年後に全自動じゃん球遊技機「マジコン」が完成し、翌年には「ジャン・マジコン」の商品名でリリース。新たな発想と先進の技術が他社の高い関心の的になるとともに、テンポの良いゲーム性が市場の高い評価を獲得するに至りました。
そのパイオニア精神は現在もわれわれに引き継がれています。社員一丸となり、それぞれが試行錯誤を繰り返すなか「発射装置の電子制御化」「(基板)制御システムのインテリジェント化」「チャンスボタンの搭載」など、安心・安全な遊技を導くマシンそのものの高性能化に加え、遊技機のエンターテインメント性を高めるアイデアを次々と提案して参りました。
振り返れば、株式会社藤商事の誕生から50年。いまはパチンコ・パチスロの開発・製造をメインに手掛ける総合遊技機メーカーとして切磋琢磨(せっさたくま)の日々にあります。今後とも決して現状に甘んじることなく、「ものづくり企業」としてさらなる高みを目指し、事業の継続を通じて社会に広く貢献していく所存です。
◆株式上場をスタートに
藤商事の創業時より、その卓越した経営センスとリーダーシップで会社を率いてきたのが初代社長である松元道子氏です。おそらく、遊技業界で初めての女性社長ではなかったかと思われます。“会社の母”として、エネルギッシュに仕事をする傍ら、社内の人間教育に手を抜かない。厳しいが情に厚く、包容力があり、「一度決めたら決して諦めない」精神力の強さ、そして仕事に対する真摯(しんし)な姿勢が、“変化”と“進化”を繰りかえしながら会社をここまで成長させたと確信しています。
社員1人ひとりをわが子のように慈しみ、ときには叱咤(しった)しながら励まし育ててきた彼女が、真に願い続けてきたのが社員の幸せ。そして、企業を支えてくれる人々(ステークホルダー)の満足です。これをさらに高いレベルで実現させるべく、私が社長を務めていた2007年、ジャスダック証券取引所(現・東京証券取引所JASDAQ)に上場し、外部からの客観的な評価に耐え得る規模・体制・責任・信用を構築し、持続可能な成長を遂げる企業への第一歩を踏み出しました。
上場は企業にとってゴールではなく、スタートです。上場することで信用力やブランドイメージは向上しますが、これを維持しさらに高めていくためには、業績を上げ、安定した企業運営を図ることはもちろん、すべてのステークホルダーに対し、堅実な体制を維持していかなくてはなりません。初代社長は、上場から約半年後に、念願かなったかの如く息を引き取りました。われわれは、先代のバトンを引き継ぎさらに飛躍すべく、今年、藤商事は新体制へとシフトしました。
変化を恐れず、ヒト味違うオモシロさの実現に向けて全力で挑み続けるこれからの藤商事に、ぜひご期待ください。
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【プロフィル】松元邦夫
まつもと・くにお 1952年12月6日生まれ。75年3月藤商事入社(専務取締役)。93年12月専務取締役辞任、97年5月専務取締役、2000年3月代表取締役社長に就任。16年4月代表取締役会長(現任)。
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