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“遊技”の進化に挑む 藤商事の50年
愛知県一宮市の名古屋事業所(名古屋工場および開発部)。2017年には同敷地内にパチスロ専用工場が完成する予定

 ■時代・ニーズに呼応 “遊び”をクリエイト

 遊技産業がその歴史を刻み始めて半世紀以上が経過した。パチンコのルーツをたどれば20世紀初頭まで遡(さかのぼ)るといわれるが、市場が形成され、産業としての礎が築かれたのは第二次世界大戦後。世間が高度経済成長へと向かうなか、パチンコは働く人々の疲れを癒す娯楽の地位を確立していった。途中、社会の価値観に左右されながらも、その都度、柔軟に変化に対応。時代にふさわしい形を模索しつつ、徐々に産業のカタチを整えていくことになる。

 ◆「じゃん球遊技機」開発

 当然、市場の活性化とともに遊技機のバリエーションも増えていく。神武景気の頃には、後に遊技機メーカー「藤商事」を創業する藤原満州夫氏が、当時流行していたパチンコとマージャンを融合させた新たなアミューズメントマシン「じゃん球遊技機」を開発。1957年に第1弾を名古屋市のパチンコホールに導入するとともに、58年、大阪府布施市(現・大阪府東大阪市)に藤商事を創業。社長には、卓越した経営センスとリーダーシップが見込まれて、パートナーである松元道子氏が就任した。

 そのようななか、61年からの10年間で展開された政策「国民所得倍増計画」の好影響のもと、パチンコも庶民の娯楽として定着。松元社長が期待通りの活躍を見せるなか、「じゃん球遊技機」のシェアも拡大。66年10月には、事業発展に伴い「株式会社藤商事」を創立し、新たなスタートを切った。

 そして、70年に開催された大阪万博の翌年、世間のマージャンブームに乗じる形で「じゃん球遊技機」が大ヒットを記録(同社のシェアは80%超えに)。73年には新規事業として、パチンコとビンゴゲームを融合させた「アレンジボール」の開発・製造をスタートさせ、同ジャンルでもヒット機種を連発。同時に、企業としての成長を視野に社内体制の改善に力を入れた。

 80年代に入り、フィーバー機(パチンコ)の登場で遊技業界全体が活気付くなか、当時専務であった松元邦夫氏(現・代表取締役会長)は、かねてから「うちの遊技機をパチンコホールの真ん中で勝負させたい」との思いからほどなく、87年、ついにパチンコ機の開発に着手。89年、同社第1弾となるパチンコが市場デビューを飾った。

 ◆07年に「JASDAQ」上場

 90年代にパチンコメーカーとしての実績を着実に積み上げ、2000年には松元邦夫氏が社長に就任。その翌年、本社を大阪市中央区に移転し、パチスロ機の開発も開始。また、総合遊技機メーカーとしての実績が着実についてきたことで、07年2月には、ジャスダック証券取引所(現・東京証券取引所JASDAQ)に上場。今年、藤商事は株式会社としての創立から50年の節目を迎えるが、ものづくり企業として「あくなき挑戦」を続ける同社の姿勢が“次世代の遊技産業”にどのような変化をもたらすのか。今後の展開が注目される。