紆余曲折を経たHHKBの20年(上)

PC Watch
さまざまなメーカーがPC開発を手掛けたことで1970年代にはキーボードも“多様化”した

 ■偶然が重なり合って誕生

 富士通傘下のPFU(横浜本社・横浜市中区)が開発製造と販売を手掛けるキーボード「Happy Hacking Keyboard」(HHKB)が、12月20日で初号機登場から20周年を迎える。それに先立ち、都内でHHKBユーザーおよびメディア、関係者を一堂に集めた祝賀パーティーが開かれた。

 パーティーには、製品開発の初期の段階から携わっている開発者や考案者も参加し、淘汰(とうた)が著しいPC市場で、なぜHHKBが生まれ、そしてなぜ20年間ほぼ同じフォルムを貫けたのかについて熱く語られた。

 ◆カウボーイのくら

 冒頭、社長の長谷川清氏が挨拶。1996年12月に第1世代のHHKBをリリースした時は500台しか生産しなかったのだが、20年間で累計40万台を超える数の出荷ができたことを振り返り、これもひとえにユーザーの支持、そして高級キーボードNo.1として認知されているためだとし、謝辞を述べた。

 淘汰が著しいPC市場で、HHKBが20年間もの間、姿や形を変えずに継続できた理由について長谷川氏は、HHKBのベースとなったモデルを考案した東京大学の和田英一名誉教授の談話を引用した。

 「『アメリカ西部のカウボーイたちは、馬が死ぬと馬をそこに残していくが、どんな砂漠を歩こうとも、くらは自分で担いで進んだ。馬は消耗品であり、くらは自分の体に馴染んだインターフェースだからだ。今やPCも消耗品だが、キーボードは大切な、生涯使えるインターフェースであることを忘れてはいけない』。この言葉の通り、HHKBはPCとユーザーをつなぐ大事なインターフェースであり、PCがたとえ2年で淘汰されたとしても、キーボードは使い続けられる。われわれはこのコンセプトと信念をもとにHHKBの事業を継続させてきた」と語った。

 この後、HHKBの開発の経緯や歴史について語られた。先頭に立ったのは、HHKBのコンセプトの考案者である東京大学の和田英一名誉教授だ。

 1970年代はさまざまな種類のPCがあって、おのおのの規格があり、規格が乱立していた。そんな中、最初にチャンスが訪れたのは92年だった。当時のPFU社長、二宮昭一氏から、同社発行の技術情報誌「PFU テクニカルレビュー(TECHNICAL REVIEW)」で巻頭言を書いてほしいという依頼が和田氏に舞い込んできたのだ。

 ◆10ページの「大論文」

 本来、同誌の巻頭言は1~2ページ程度でよかったのだが、和田氏はなんと10ページにもわたる“論文”を書いてしまったという。「けん盤配列にも大いなる関心を」と題されたこの論文の内容はもちろん、当時のPCのキーボードについての考察だ。同誌のバックナンバーにはないが、この巻頭言は今でもPFUのサイトで閲覧できる。なぜ当時さまざまなキーボードがあったのか、キーボードはなぜこのような形をしているのか詳しく解説されているので、ぜひ一読してほしい。

 論文の論点は、PCとユーザーをつなぐ重要な役目であるインターフェースは変わるべきではない、ということだ。当時、和田氏はSunのワークステーションを導入していたのだが、これを入れ替えるたびにキーボードの配列が変わってしまい、なかなかタッチタイピングができないという悩みを抱えていた。

 ならばということで、論文の中で(1)使う計算機は固定し、他の計算機の場合はネットワーク経由で使う(2)キーバインディングを自分用に変更する(3)キーボードのコネクターを規格化し、自分のキーボードを持ち歩く(4)キーボードの最小共通部分を規格化し、そこだけ使うようにする-という4つの解決法を提唱した。言うまでもなく、和田氏とPFUがHHKBで目指したのは(4)であるほかない。

 この論文を発表後、しばらくは音沙汰がなかった。和田氏自身も、この論文を書いたことすら忘れてしまうぐらいである。転機が訪れたのは95年。東京大学を定年退職した和田氏は、富士通研究所に在籍していた。富士通は当時、内部で1年に2回研究に関する成果報告会があり、そこにPFUの専務、新海卓夫氏が参加したのだ。

 実は新海氏は、1970年代に和田氏と計算機を作るプロジェクトで一緒になり、面識があった。報告会の帰りにいろいろな相談をしていたのだが、92年の和田氏の論文を覚えていた新海氏は「このキーボードを実現するためにぜひPFUにお寄りください」と声をかけたという。

 ◆瞬時に500台完売

 相談を受けた和田氏は、紙を切り貼りして作ったキーボード(の配列)を、当時、東京・町田にあったPFUに持って行った。「これなら(提案が)駄目になっても不思議ではない」と思っていたが、開発者たちは本気で作ろうと思っており、プロジェクトが開始。96年夏頃にはみるみるうちに製品が出来上がっていった。そして同年12月に、ワイド研究会に1台持って行ったところ大好評となり、500台だけ生産していたものがあっという間に売れてしまったという。

 「二宮社長から巻頭言を依頼され、たまたまキーボードについて書いて、新海氏がそれを読んで覚えてくださり、コンセプトを持って行ったらプロジェクトが進んで発売になったというのは、まさに偶然に偶然が重なり合って生まれた製品ではないかと思う」。そう和田氏は振り返った。

 HHKBは20周年という年を迎えるが、和田氏は「やはり一生使えるインターフェースというコンセプトがあったからこそ20年間続けられたのだと思う。PCは2年ぐらいで買い換えるのだが、インターフェースはプリミティブであったからこそ今まで生きながらえた。今日を迎えられたことを大変うれしく思う」と語った。

 なお、和田氏は今年85歳を迎え、今もIIJ技術研究所で活躍されている。現在の趣味は3Dプリンターで、「今からキーボードを作るなら金型を作る必要はなく、ぜひ3Dプリンターの技術を駆使して作ってほしい」と語る。HHKBが30周年、40周年を迎えるタイミングでも和田氏にパーティーに来てほしいと思ったPFUのスタッフからは、HHKBを模したケーキが贈られた。

 HHKBの進化の歴史については、PFUが特設サイト(http://www.pfu.fujitsu.com/hhkeyboard/20th/)を開いており、そこでも参照できる。(インプレスウオッチ)