元売りの団結が窮乏しのぐ 首都直下想定の連絡網活用

被災地へ 石油列車
激しく炎を上げて燃え続けるコスモ石油の千葉精油所のLPガスタンク=2011年3月11日、本社チャーターヘリから

 東日本大震災直後から沿岸部を中心に停電が広範に及び、病院では、人工呼吸器や人工透析装置など一時も止められない機器の稼働を自家発電で何とか維持する状況だった。自家発電設備の多くはA重油や軽油などが燃料。安全面やスペースの制約から大量保管が難しいため、ストックが底をつくのは時間の問題だった。

 民族系の意地

 鉄道での石油輸送計画が進められる中、深刻度を増していく被災地の石油不足にまず対応しようとしていたのは石油元売り業界だった。

 「え、そちらもだめですか」

 3月11日夜、東京・大手町の石油連盟(石連)。流通調査グループ長を務める小野森彦氏はこう言ってため息をついた。被災地から寄せられる石油供給の要請は、政府経由で石連にファクスで送られ、小野氏ら石連の職員が加盟する元売り企業と交渉する仕組みとなっていた。石連は2008年、東京都と首都直下型地震などの災害時を想定した石油供給協定を締結。この際に石連と各元売りとの緊急連絡網が整備され、迅速な対応を可能にしたという。

 大震災の被災地からは当初、「ガソリンを数十リットルほしい」といった小口の要請も多かった。それらは政府がより分けて別の業界団体に回し、石連では大口案件に絞って、タンクローリー輸送で対応することになった。

 しかし、元売りの窓口に問い合わせると「混乱していて。申し訳ないが…」と断られるばかり。業界最大手JXエネルギーの仙台製油所、コスモ石油千葉製油所が爆発炎上。関東近郊の製油所の多くも地震の揺れで緊急停止するなど、業界の被災影響も深刻だった。

 「頼む…」。必死で要請の受け入れ先を探す小野氏の受話器の先から「わかりました」との声が返ってきた。

 「秋田経由でタンクローリーを出します。山越えだから時間がかかるかもしれませんが」。出光興産だった。

 第一便は病院向けのA重油、灯油など4~8キロリットル。その後も同様の案件が数件寄せられたが、震災当日に要請に対応できたのは出光だけだった。出光は他の元売りに比べ製油所の被害が軽かった。ただ、あれだけの非常時に余裕などあるはずはなく、小野氏は「民族系元売りの意地のようなものを感じた」と振り返る。

 ベテランの力

 震災発生2日目、政府からの更なる石油供給要請に備え、石連では対応態勢を増強した。加盟各社から1人ずつ人員を出してもらい、経済産業省資源エネルギー庁から駆け付けた応援も含め10人ほどが24時間対応で案件整理、元売りとの交渉にあたることにした。一同が集結する会議室には長机と電話、ファクシミリが10台ほど設置され、ドアに「共同オペレーションルーム」のプレートがかけられた。

 元売り自体が被災する中、交渉は困難も予想された。「まずは俺が(共同オペレーションルームに)入るよ」。そう言って当番に志願したのは石連委員も務める元売りのベテラン社員だった。生産や物流の専門家も多く集まった。せっかく現地にタンクローリーを派遣しても、給油ホースの接続金具の仕様が少し違うだけで受け入れできないこともあり得る。要請に対する確認事項はどうあるべきか。初動段階でベテラン社員たちの力は大きかった。夜には深刻な被害を受けたJXグループも合流した。

 病院や警察、消防などへ必死の石油輸送が展開されたが、被災地では乗用車のガソリン不足が進んでいた。食料調達や避難の足として燃料を満タンにしておきたい。そんな被災者の行動が加速度的に広がっていた。