キーパーソンインタビュー

千葉元気印企業大賞
重城敬子医師(左)

 ■ロール製造の雄技術開発の源は社内の一体感

 □津覇浩一 サンレイ工機代表取締役社長(2015年度第21回 優秀技術賞受賞)

 親戚の会社に来たのが29歳。「入社後6、7年はキツかった」と打ち明けるのも、自ら現場でモノをつくり、技術者との一体感を築いた今だから。

 一時考えた獣医への道でなくメーカーに入社、専攻分野だったバイオテクノロジーを応用する新製品開発部門で修業を積んだのは、実家が鉄道の車体などを製造する特殊車両メーカー、津覇車輌工業(東京)という影響もあったようだ。2年間の修業が明けると、車両づくりを学んでゆく。現場で汗を流す将来の幹部候補に、技術者たちは親近感を持ち仲間に迎え入れた。

 そこへ、「会社を手伝ってほしい」という親戚からの依頼。「新しいことに挑戦したかった。つくるモノは違えど『津覇車輌と勝負!』という気もあった」ことで転身を決めた。

 モノを製造したり印刷したりするには回転運動を利用するため、製造用機械には鉄パイプ状の太い金属ロールが組み込まれている。ロールの表面には薄い金属を被膜して本体を保護し、高熱でもたわまないようにせねばならない。被膜によりロールに重さが加わるが、重さを少なくすれば機械の稼働コストが下がる。ロールと被膜層の間がしっかり密着していないと製造や印刷工程にムラが出る。親戚の会社はそんな、ロールの被膜技術を生業としていた。

 「実家も親戚の工場も機械関連。違和感はなかった」と笑うが、財務体質も有利子負債がかさみ今ひとつ。「でも、やってみるかいはあった」。“よそ者”と見られがちな立場にも怯まず、ここでもまず現場のモノづくりを覚えた。「生産性を上げようとしない技術者もいたが、正直な人は見ていてくれた」

 「今も自分でロールを製造できる。俺の方が出来がいい、と軽口たたいてね」。製造だけでなく、CAD導入、ISO9001取得にあたって自ら学び、簿記をマスターするなど率先垂範。実質トップの現場へのこだわりが従業員間にも浸透し、社内が活気づいた。約5年前、社長に。入社から計21年。世界最大、9.2メートルのクロムメッキカーボンロール製造に成功するなど「技術が得意な会社」としての面目を施してきた。「社員がアイデアを出し、技術力が上がり続けている。みんな個性的で自立できているからかな」と仲間に信頼を寄せる。

 「どれだけトップに付いてきてくれるか。そんな関係づくりを大切に思ってきた」。F・テイラーの科学的管理法に通じる人間観察。インタビュー後、社長がパソコン画面を見て「ナイスだよ、これ」。取り囲む技術者は皆、笑顔でうなずく光景に出くわした。この熱さ、一体感。黎明期のHONDAやSONYもきっとこうだったに違いない。

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【プロフィル】津覇浩一

 つは・ひろかず 2013年社長就任。現場仕事を自らこなし、技術者からの信頼も厚い。今、力を入れている一つがレーシングカーのプロペラシャフト製造。「スーパーGTの出走車にはすべてウチのシャフトが使われている」と胸を張る。趣味のテニスは白井市の大会で優勝する腕前。50歳。東京都出身。

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 <企業プロフィル>1969年創業。金属ロールの表面に薄い金属を被膜する高度な技術を持つ。スマートフォンや液晶テレビで使われるフィルムの製造に必要な、カーボン管に金属を被膜したロール製造におけるシェアはほぼ100%。回転体のバランスを保つ独自技術を生かしたレーシングカーのカーボンプロペラシャフトの製造も。「事務職から役員まで、全員が製造装置を操作できる」(津覇社長)技術者集団。

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 ■「足の外科」で医療界の頂点に挑む若きDr.

 □重城保之 医療法人社団明敬会 重城病院副院長

 「職業や履歴など脱ぎ捨てた何者でもない、信念理念を持つ自分があれば、相手と話せることが留学生活で分かった。それに比べて医者の世界は狭い」。「ファーストインプレッションで打ち解けられる性質(たち)」であるうえ、海外で“大海”を知った若き医師は、狭い世界に静止せず“動”の個性を貫いてきた。

 地域医療に尽くす両親を見て育ち、医者を目指すことに迷いはなかった。「大病院に多くの患者が集まる外科手術などに比べ、個人の力量がモノを言う」整形外科を選ぶ。“動”の行動指針のままに、多くの多発外傷患者を救ってきた。

 医大を卒業し、米ボストンに留学。人種を越えた付き合いのほか、異業種の日本人にも知己を得た。帰国後、研修医を経て28歳で臨床整形外科医として立つ。さらに、東大医学部附属病院救急部という救急医療現場へ。「いいきっかけでした。先輩医師が『東大の救急医療を俺が変える』と実践していた、内科系の患者を診る際のデータ重視の科学的救急医療を学べた」。整形外科の領域に加え、医師としての技量の裾野が広がった。

 当時、月に数日は木更津の両親の病院を手伝うことも。「ボストン在住の頃、経営コンサルタントの友人からビジネス話を聞き、一般企業と医療の世界がいかに乖離しているかを知ったことで、実家の病院経営について考え始めた」。臨床医デビューから8年間は、属する医局の方針でさまざまな病院を経験するのが倣い。いつしか30代後半、その8年がたとうとしていた。

 16年秋、木更津に戻り、その後副院長に。両親が胃腸科外科皮膚科病院を開いたのが1986年。「地域密着30年余の実績はあっても、今後それだけで生き残るのも難しい。『唯一の』といえる特色がないと」。診療科目に整形外科を入れ、今春から手術も始めた。ただ、これで差別化できる、と考えるほど狭い見通しの持ち主ではない。

 多くの患者と対話した経験が生きる。「外傷患者は、治ったように見えながら『膝から下の痛みが消えない』と言う方が多く、足首などの部位の痛みが残る。だから『足の外科』を特色に、と」。そこで、動く。国内屈指、海外にも聞こえた足の外科医師、高尾昌人医師を4月に招聘した。高い技術を頼り、県外からの患者も多くなった。

 「東京五輪・パラリンピックを控えアスリートを支える存在になり『足の外科、重城あり』と言われたい」と母の重城敬子医師を横に話す。診察と後進育成を高尾医師らとともに行う一方、「後輩が国内外で活躍できる環境をつくる」と病院経営者の顔にもなる。「足の外科と地域医療の両輪で。医師は患者さんの隣人ですから」

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【プロフィル】重城保之

 じゅうじょう・やすゆき 2016年重城病院入り。現副院長。米映画『パッチ・アダムス』の主人公の医学部生が白衣権威主義を嫌い、医師たちを「偉くなりすぎ。患者にとって気安い隣人であるべき」と批判する、その考え方に自らのあり方を重ねる。院内で寝泊まりし、入院、救急患者の隣人に徹する。39歳。千葉県出身。

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 <企業プロフィル>1986年に重城医院として開院後、06年に規模を拡大した重城病院となり、木更津市民のための医療の一翼を担ってきた。16年秋から今年4月にかけ、整形外科診察・手術開始、新内視鏡システム導入、足の外科診察開始-と、矢継ぎ早の新機軸医療サービスを打ち出している。足の外科の領域では高度技術システムを売りに海外展開も視野に入れ、他方、地域医療の充実も図る二本立ての病院経営を推進。

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 ■千葉元気印企業大賞

 新しい千葉県の産業と、各企業の活力アップの一助になることを願って1995(平成7)年度に制定された表彰制度。わが国の産業基盤を支える地域企業の発展に一層の弾みをつけていただくことを目的に、新技術、新製品開発、ユニーク経営などを通じ、活力あふれる経営で時代を先取りする中堅・中小およびベンチャー企業を広く表彰するもの。応募資格企業は千葉県内に本社および事業所をもつ、株式上場会社を除く全企業(ジャスダック登録企業は応募可)

【主催】フジサンケイビジネスアイ 【共催】千葉興業銀行

 ◇問い合わせ先

 フジサンケイビジネスアイ 千葉元気印企業大賞事務局

 〒100-8125 東京都千代田区大手町1-7-2

 (電)03・3273・6180 FAX03・3241・4999 E-mail chiba-genki@sankei.co.jp

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