1976年7月に行われたモントリオール五輪の開会式で入場する日本の選手団。同市の住民は21世紀に入っても五輪関連の借金を税金で支払い続けた【拡大】
72年ミュンヘンは、大会11日目に発生したパレスチナ過激組織『黒い9月』による選手村のイスラエル選手団襲撃事件だ。
組織は選手団の2人を射殺、9人を人質にとってパレスチナ人約250人の解放を要求したが、イスラエルが拒否。西ドイツ政府は特殊部隊を投入し銃撃戦の末に選手団、犯人合わせて14人が死亡するオリンピック史上最悪の事態となった。
この後、オリンピックは政治主張の場と注目され、安全対策が最重要課題となっていく。
◆赤字完済まで30年
経済が問題化したのは76年モントリオールだった。
当時、大会運営費等は現在のように国際オリンピック委員会(IOC)が一部負担する形になっていない。あくまでも開催都市や政府に任された。
組織委員会は当初、3億2000万ドルの予算を計上した。ところが、見る間に諸物価が高騰し、建設費が上がっていく。73年に発生した第1次オイルショックの影響だった。
結局、予算は10億ドルの大赤字を計上した。モントリオール市は不動産税の増税で2億ドルを負担、ケベック州はたばこ税の増税で8億ドル補填(ほてん)することが決まった。住民たちは21世紀に入っても税金を払い続け、完済まで30年を要した。
東京が絶対に避けねばならないオリンピックにおける負の遺産の典型である。
この影響が現実になったのが84年夏季五輪招致だ。立候補都市はロサンゼルス1都市のみ。しかも行政は「公的資金は一切使わせない」という。
ロサンゼルスが失敗すればオリンピックは消滅するかもしれない。究極の事態だった。
加えて80年モスクワではソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する米国に同調した日本や西ドイツ、韓国など西側諸国が参加をボイコットした。東西冷戦がオリンピックを圧迫していた。(産経新聞特別記者 佐野慎輔)