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スペースジェット事業凍結の裏側「一企業だけで進退を決められなかった」

 【失意の翼】(上)

 2015年11月、県営名古屋空港(愛知県豊山町)に集まった約500人は、国産初のジェット旅客機MRJ(現スペースジェット)の初飛行を固唾をのんで見つめていた。機体はふわりと浮き青空に向かってぐんぐんと上昇。空港は歓声に包まれ、商業化は近いとの期待が官民に広がった。

 あれから5年。期待は失望に変わった。トラブル続きで納期延期を重ね、今も完成のめどは立たない。積み上がった開発費は1兆円規模。新型コロナウイルス流行で航空機需要が消滅し、撤退論も出た。採算と国からのプレッシャーのはざまで苦しんだ経営陣が出した答えが玉虫色の事業凍結だった。三菱重工業幹部は「国家事業だ。一企業だけで進退を決められなかった」と明かす。

 日本の航空機産業は苦難の連続だ。戦中は「ゼロ戦」などを製造したが、敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は航空機の研究・生産を禁止。1952年に再開が認められ、官民で戦後初の国産旅客機YS11を開発するが、採算が取れず182機の製造で終了。その後、冬の時代が訪れた。

 2008年にようやく転機が訪れた。三菱重工が半世紀ぶりとなる国産旅客機計画を事業化。佃和夫社長(当時)は「官民長年の悲願」と強調し、自動車に次ぐ基幹産業として日本の技術の粋を集めた「日の丸ジェット」への期待が高まった。

 だが、ハードルは高かった。民間旅客機に求められる高い安全性の担保に苦戦。戦闘機の経験はあるが「旅客機は勝手が違った」(開発子会社の三菱航空機幹部)。自前開発をあきらめ、外国人技術者を大量採用する方針に転換したが、仕事をめぐって日本人と対立。開発子会社のトップもめまぐるしく代わった。

 実績がないことも響いた。部品メーカーは欧米航空機大手向けを最優先し、新参者に回る商品は品質が低いものが多い。それが原因で大幅な計画見直しを迫られることもあった。商業飛行のための認証審査も官民双方にノウハウがなく、元三菱航空機副社長の岸信夫氏は「日本が関わらないところでルールが全てつくられている」と欧米主導の民間航空機分野に参入する難しさを語る。

 1月完成の最新試験機も「40点の仕上がり」(関係者)。誰もが疲弊し出口が見えない中、コロナがとどめの一撃となった。開発に携わる幹部は「凍結は撤退に等しい」とつぶやいた。


【失意の翼】三菱重工が国産ジェット事業の凍結を発表した。日本経済の浮揚に大きな役目を果たすはずだった国家プロジェクト頓挫の裏側を探った。

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