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メンツやおごりが見え隠れ、今こそ問われる東京五輪の開催意義 (1/2ページ)

 かつて、長引く景気低迷時代を表して「失われた~年」という言葉があった。それを模した言葉で言うなら、新型コロナウイルス感染症拡大の猛威に巻き込まれた昨年は、「奪われた1年」とも言える。新型コロナは、われわれの日常からさまざまなものを奪った。(フリーランスプランナー・今昌司)

 暮らし、経済、教育、スポーツや文化・芸術活動の機会、そして、人の命すら奪ってしまった。1年前の正月に2020年がこんな年になろうとは、誰も予想していなかった。何よりも、東京五輪・パラリンピック競技大会の延期は苦渋の決断だった。そして今年、果たして開催されるのか、はたまた中止に追い込まれるのか、全く予断を許さない状況となっている。

 目的について熟考を

 先述の通り、新型コロナは多くのものを奪った。しかし、普段は当たり前に考えていたことについて、改めて考える機会にもなった気がする。東京オリパラ開催も例外ではなかろう。なぜ開催するのか。最近の関係者の言葉からは、何やら東京オリパラを開催することが目的化しており、中には意地でも開催する、というような「開催ありき」の考え方も散見されるようになってきている。

 もちろん、開催を待ち望んでいる人は多く、その経済効果に期待する声は、コロナ禍によるダメージを受けた人たちだけのものではないであろう。だからこそ、なぜ開催するのか、という意義と目的について、もう一度しっかりと考えるべき時なのではないか、と考える。

 五輪競技大会は、一般的なスポーツイベントと異なる。そう言える根源は、国際オリンピック委員会(IOC)が近代五輪について定めたオリンピック憲章の第1章に規定されている。「オリンピックムーブメントとは、オリンピズムとその諸価値に従いスポーツを実践することを通じて若者を教育し、平和でよりよい世界の建設に貢献することである」。つまり、オリンピックムーブメントは、スポーツを通して平和を目指す運動であり、その象徴的な場として五輪競技大会はある。

 そのことに開催意義はあり、過去、さまざまな困難を乗り越えながらその大会の価値を高めてきたのである。夏季大会は3度、冬季大会は2度、戦争によって中止に追い込まれているが、中止になったことこそが、五輪競技大会が「平和の祭典」としての開催意義を再確認させたのではないだろうか。

 新たな事業の創出に

 新型コロナの世界的な蔓延(まんえん)は、過去にあった国や民族同士の砲火を交えた殺し合いとは違う。しかし、現代の見えざる敵との戦いであることに間違いはない。そうした観点から、この難敵に打ち勝った証として東京オリパラの開催意義を見据えることは、政治家の言葉としても正しいのかもしれない。その言葉の裏に、思惑だらけの国のメンツや政治家個人のおごりが見え隠れしているように感じるのは、気のせいだろうか。

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