安田信託銀行(現みずほ信託銀行)最後の社長として1990年代後半の金融危機を果敢に乗り切った木南隆彦氏が1月3日、誤嚥(ごえん)性肺炎で逝去した。82歳であった。同行OBから訃報を聞き思わず絶句したが、同時に木南氏との数々の思い出が走馬灯のように蘇った。それはバブルに狂奔した80年代から、一転して不良債権処理に苦しみ抜く90年代を経て、金融再編に飲み込まれていく信託銀行の歴史とも重なる。
筆者と木南氏の出会いは、木南氏が業務部長として着任したときに始まる。業務部は俗に「MOF担(旧大蔵省担当)」の部署で、信託協会との窓口も務めていた。安田信託の将来を担う優秀な人材が集まっていたが、木南氏は「私は営業上がりで、出身も兵庫県の山奥」とよく謙遜していた。地元の県立龍野高校では職業科で就職組であったが、成績が優秀であったことから担任教諭の進めもあり進学コースに転じ、1浪して東大法学部に進んだ。ただ、入学後は勉強そっちのけで好きな酒に走る。「東大赤門前の落第横丁がお気に入りで、武勇伝も残っている」(安田信託OB)という。
安田信託入行後は神戸、上野、福岡などの営業をこなし、審査、人事部などを経て、業務部長に就いたが、ここで好きな酒が大いに生きた。「部署柄、大蔵省など官僚との会合が多かったが、酒好きの木南さんは苦にならなかった」(同)という。
また、木南氏の妻は目黒区立東山小学校の教員を長く務めたが、学区には国家公務員の官舎が数多くあり、その師弟が通っていた。その中には大蔵官僚の子供も多く、キャリア官僚から「奥さんには頭が上がらない」とよく聞かされた。当時はバブルの最中、信託銀行も元気な時代だった。
この業務部長以降、木南氏は将来の社長候補の筆頭に挙げられ、実際、98年に社長に昇りつめたが、まさに苦難の最中の就任だった。バブルに踊った大手銀行はどこも不良債権の重みに苦しんでいたが、安田信託も例外ではなく、97年の山一証券の破綻を引き金にした金融危機のあおりを受け、一時、追い込まれた。
幸い芙蓉グループの支援もあり資本増強に成功するが、危機は収まらず、都市銀行との再編に活路を見いださざるを得なかった。このとき木南氏が決断したのが、年金などの資産運用・管理部門の分離だった。第一勧業銀行と富士銀行の信託子会社が合併して誕生する新信託銀行に、安田信託の資産・管理部門を統合するというもので、不良債権が比較的少なかった第一勧銀の杉田力之頭取から寄せられた構想だった。
木南氏の決断に安田信託内部では、「生木を裂くような分離案」と悲観する声も聞かれたが、結局、この分離による資本の捻出が安田信託の窮地を救った。同時に、この新信託銀行の設立が第一勧銀と富士銀の結節点となり、そこに日本興業銀行が加わり、現在のみずほフィナンシャルグループ誕生へとつながっていく。
歴史に“if”はないが、もしあの時、木南氏が資産運用・管理部門の分離を決断しなければどうなっていたか。当時、鮮明に覚えているのは、「この際、信託7社が大同団結して、巨大な信託銀行を作ってはどうかという意見が信託協会の社長会で出されたことがある」と木南氏から教えられたことだ。それほど信託専業にプライドを持っていた。信託銀行は当時の7社から3社に集約されたが、その存在はいまも輝いている。
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森岡英樹(もりおか・ひでき) ジャーナリスト。早大卒。経済紙記者、米国のコンサルタント会社アドバイザー、埼玉県芸術文化振興財団常務理事を経て2004年に独立。福岡県出身。