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「新型コロナ克服の証に」 1964年東京五輪第1走者、聖火リレー号砲待つ

 新型コロナウイルス禍のため延期されていた東京五輪の聖火リレーが、25日にスタートする。福島県を出発し、全国で約1万人が聖火のトーチをつなぐ。57年前の前回東京五輪では、沖縄県が国内リレーのスタート地点だった。そのときの第1走者、宮城勇さん(78)は今回もランナーに選ばれ、喜びと感謝を胸に故郷を走る。(川瀬弘至)

 感染防止の優等生

 ストレッチ10分、腕立て伏せ3セット計45回、腹筋3セット計75回、スクワット、握力トレーニング、竹刀の素振り…。

 宮城さんが週4回、沖縄県浦添市の自宅で続けている運動メニューだ。この1年、自身を「新型コロナ感染防止の優等生では」と振り返る。不要不急の外出を避け、それまで続けていたスポーツクラブ通いも長期間自粛した。人生で2度目の聖火リレーを「しっかり走り抜きたい」からだ。

 本番が近づくにつれ、昔を思い出すことも、しばしばあるという。

 その日、昭和39(1964)年9月7日、那覇空港を起点とするリレーコースの沿道は、日の丸の小旗を打ち振る群衆で埋まった。大歓声が沸き起こり、当時22歳の宮城さんが走り出す。これほどの日の丸を見るのは初めてだ。緊張と感動で、トーチを持つ手が震えた。

 キャラウェイ旋風

 当時の沖縄は米軍統治下で、日の丸を自由に掲げることができなかった。

 36年にトップの高等弁務官になったポール・キャラウェイ陸軍中将は、「沖縄の自治は神話だ」と公言してたびたび強権を発動し、琉球政府の行財政に介入した。「キャラウェイ旋風」の名で知られる、専制的統治である。

 これに住民らは激しく反発。祖国日本への復帰熱が一気に高まった。米本国は沖縄の混乱を恐れ、キャラウェイは39年7月末に解任される。その約1カ月後に那覇空港に到着したのが、聖火だった。

 後任の高等弁務官は、聖火リレーにおける日の丸を黙認した。学校や家庭で小旗がつくられ、子供たちにも配られた。その小旗の波を、かき分けるように宮城さんは走った。

 「日本人であることの誇りと、祖国復帰への願いを抱きながら走った。沿道の人たちも同じ思いだっただろう」

 8年後、沖縄は祖国復帰を果たす。

 “幻の一足”

 琉球大教育学部4年だった宮城さんは翌年、高校の体育教師となり、その後は沖縄国際大の教授に就任。平成23年に退職後は、地元の小学校などの要請で子供たちに五輪や聖火リレーの意義などを教える活動もしている。

 ステイホームが続く昨年11月には、思わぬ“ご褒美”もあった。57年前の聖火リレーで走者にランニングシューズを提供した靴メーカーが復刻版のシューズを作り、宮城さんに寄贈したのだ。

 「この靴は、前回は何らかの事情で私のもとには届かなかった“幻の一足”。とても感謝している」と息を弾ませる。

 宮城さんは5月2日、生まれ育った浦添市内を走る予定だ。大観衆が沿道を埋めた前回とは異なり、新型コロナ対策で人出は少なくなるが、「平和の使者である聖火リレーの意義は変わらない」と話す。

 「病気などへの不安がないことも平和。世界各国が力を合わせ、ワンチームになって戦えば、新型コロナを克服できるだろう。そうしたメッセージを力強く発し、さすがは日本だ、聖火を託するに値する国だったと称賛されるような、五輪と聖火リレーを実現しなければならない」

 宮城さんは、シューズのひもを締めなおした。

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