大津地裁が高浜差し止め 原発不信の払拭は政府の責務

視点

 □産経新聞論説委員・井伊重之

 東日本大震災に伴う東京電力の福島第1原発事故は、日本のエネルギーを取り巻く状況を一変させた。「安全神話」が崩壊した原発に対する信頼は失墜し、事故から5年が経過しても全国の原発は長期の稼働停止を余儀なくされている。

 だが、海外からのエネルギー輸入に頼らなければ生きていけない日本にとって、準国産電源である原発に対する国民の不信感が払拭されていない事態は不幸なことだ。原発を有効に生かせず、発電コストの高止まりを招いている。そのツケは結局、国民が高い電気料金として負担している。

 その根強い不信感は、日本のエネルギー安全保障も揺るがせている。わが国のエネルギー自給率は主要先進国の中で最も低く、わずか6%にすぎない水準にある。とくに原発停止で政情が不安定な中東へのエネルギー依存が高まっているのは問題だ。足元の原油安で目立たないが、日本のエネルギーを支える基盤が確実に脆弱(ぜいじゃく)化している現実から目を背けるべきではない。

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 今年1月に58歳の若さで亡くなった澤昭裕さんも生前、わが国のエネルギー安全保障に強い危機感を抱いていた。澤さんが通商産業省(現経済産業省)に入省したのは1981年。第2次オイルショックの直後だったため、省内には安定的なエネルギー調達への緊張感が色濃く漂っていたという。

 だが、福島事故で原発に対する逆風が強まる中で、経産省からエネルギー安全保障の観点で原発の重要性を指摘する声がほとんど漏れてこないことを気にしていた。「私の入省当時と時代が違うのはわかる。だが、日本のエネルギー環境は何一つ変わっていないはずなのに」と首をかしげていたのを覚えている。

 それだけに原発を運営してきた「原子力ムラ」に対する怒りも強かった。澤さんの遺稿となった「Wedge」(3月号)で「原子力を殺すのは、原子力ムラ自身である」と喝破したのも、福島事故を経た後も自ら変わろうとしない原子力関係者、そして政府の原子力政策に対するもどかしさの表れだったのだろう。

 澤さんはこの論考の中で、「国策民営」の原発政策を政官業による「責任のもたれ合い構造」と批判している。この構造が当事者意識の希薄化を招いており、リスクの取り手が不在のまま、将来の電力安定供給を危険にさらしているとみている。

 大津地裁は今年3月、再稼働したばかりの関西電力高浜原発3、4号機をめぐり、「安全性の説明が尽くされていない」などとして運転差し止めを命じる決定を下した。これによって高浜3号機は運転停止に追い込まれた。司法判断で運転中の原発が稼働を止めた初めての事態だ。関電側はただちに異議を申し立てたが、政府側の反応は鈍いままだ。

 周辺住民から提訴されたのは関電だが、地裁決定は原子力規制委員会の新安全基準にも疑問を投げかけている。これは「安全性を確認した原発は再稼働を進める」としてきた政府の原発行政を真っ向から否定する内容でもある。これから再稼働する原発は高浜原発と同じ「司法の壁」に直面することになるだろう。

 それを「電力会社が対峙(たいじ)すべき事案」と片付けてしまっていいのか。まさに政府の姿勢が問われているといえよう。

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 わが国では電気料金の値上がりや節電意識の浸透などにより、電力需要は減少傾向にある。「原発がなくても電気は足りている」との声が高まるのも無理はない。だが、海外の有事で日本のエネルギー調達に支障が生じれば、何よりも困るのは国民自身である。資源小国の日本が電力供給における原子力という選択肢を放棄することが合理的とは思えない。

 それだけに政府の責任は重い。原発に対する厳しい世論を意識するあまり、原発の必要性や重要性を国民に訴える責務から逃げるべきではない。政府が昨年7月に閣議決定した2030年度における電源構成目標では、原発比率を20~22%にすると定めた。だが、数値目標さえ決めれば、それが達成できるわけではない。その実現に向けた政策をきちんと打ち出す必要があることを忘れてはならない。