熊本地震 想定外の震災再び 「備災」は国民の義務

論風

 □防災・危機管理ジャーナリスト 渡辺実

 ◆現地で本震を体験

 熊本・大分地震から間もなく1カ月になる被災地では多くの被災者が継続する余震に脅えながら不自由な避難所生活や車内避難を続けている。4月14日、最初の震度7の大地震が起きた。筆者は翌15日午後に、熊本の民放ローカル局支援のため被災地に入った。その日は激甚な被害があった熊本県益城町取材をして、局で翌日の地震に関する特別番組などの打ち合わせを終え、午後11時ごろチェックインしたのは熊本市中心街にある10階建てのホテル7階の部屋。ベッドでウトウトし始めた16日午前1時25分ごろ、突然の突き上げられる縦揺れで身体が浮き、直後に激しい横揺れ。ベッドは部屋の中を動き回り、ラックに納められていた冷蔵庫が飛び出し、ポットは床に落ちカーペットは水浸し、スタンドライトは転倒、壁にあった額や時計が飛んできた。掛布団で身を守るのが精いっぱいだった。

 揺れが収まり非常階段で1階へ避難すると外国人観光客を含む多くの宿泊客が着の身着のままで集まってきた。これが2回目の震度7。後に気象庁はこの2回目を「本震」、14日の震度7の地震を「前震」とした。前震・本震型の地震はまれに起きるが、立て続けに震度7を記録したのは観測史上初めてであり、14日以降の余震が1000回を超えるのも観測史上初めてのことで、いまだ余震活動は継続している。

 「熊本には地震はない」と多くの市民や行政、地元メディアも考えていた。3年前の2013年8月、今回支援に入った熊本ローカル局は熊本地震特番を放送しており、筆者はそのお手伝いをした。その縁で今回の支援へとつながるのだが、当時はまったく視聴者も放送局もしらけていたことを思い出す。

 そんな地震への備えが無防備な熊本を直下地震が襲った。21年前の阪神・淡路大震災も「神戸には地震がない」と考えていたところに震度7の直下地震が襲った。地震直後の熊本被災地の姿は、多くの家屋が崩壊した21年前の神戸市の姿と全く同じだった。

 今回の特徴の一つに1回目の震度7に何とか耐えた家屋へ戻り2回目の震度7で崩壊したため亡くなった方がいる。これは東日本大震災のとき、第一波の後、自宅に戻りその後の巨大津波で亡くなった事例と同じではないか。それが内陸直下地震で繰り返されてしまった。

 ◆新耐震基準見直しか

 2回の震度7によって被災者は増加し、避難所には入れず、また連続する余震の恐怖から逃れるために車中避難も多い。結果、エコノミークラス症候群が多く発生し、死亡者も出た。同時に震災関連死も早い時期に発生し、想像を超えるストレスが被災者をむしばんでいることがわかる。

 被災した建物調査が進む中、新耐震基準(1981年6月以降)で建てられた住宅や避難所の体育館などが2回の震度7の烈震には耐えられずに崩壊している事例が報告されている。この新耐震基準だが、震度7が連続して起こる地震力に耐える想定はない。この現実を受け、今後耐震基準を見直す必要があるか議論を待ちたい。

 風水害は気象予報で予測ができ、市民も行政も前準備が可能な災害だが、地震は突然に襲ってくるので直後の瞬発的な応急対応が必要となる。地震への防災文化がそもそもない、備えも無防備だった熊本であった。そこを襲った大地震は前例がないメカニズムで発生して、気象庁も地震学者も今後の見通しを示せない想定外の地震という。5年前の東日本大震災以降、また「想定外」が起きているのである。

 筆者は東日本大震災後に「備災」という言葉を全国の講演会などで伝えている。「防災」「減災」ではなく、災いは日本中どこでも起こるのであれば災いに備える「備災」を徹底的にリアルに実行する以外にない。以前このコラムでも書いたが「備災!三題噺(ばなし)=水・食料・トイレの備え」は、国民一人一人の義務といっても過言ではない。われわれはいま、想定ができない天地動乱の日本列島で生きていることを肝に銘じてほしい。

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【プロフィル】渡辺実

 わたなべ・みのる 工学院大工卒。都市防災研究所を経て1989年まちづくり計画研究所設立、代表取締役所長。NPO法人日本災害情報サポートネットワーク顧問。技術士・防災士。65歳。東京都出身。