タイ新憲法下で選挙の行方混沌 選管の公平さに疑問、強まる不信
軍事政権下のタイで新憲法が公布・施行されて2カ月。軍政は「民政復帰」に向けた新たなロードマップ(行程表)に従い、10月下旬に予定されている前国王の火葬の後、選挙関連法の整備を本格化させ、来年後半の総選挙実施の絵図を描く。だが、ここに来て3年前の軍事クーデターの影の立役者ともされる選挙管理委員会に対する不信がにわかに浮上し、新たな火種となり始めている。選挙を公正に取り仕切るはずの選管がなぜ批判の矢面に立たされるのか。
◆法学者が批判
「たとえ新しい憲法に基づく総選挙が実施されても、タクシン派が有利と知れば、また選管はサボタージュに動くに違いない。前回選挙で選管の信頼は地に落ちた。その総括ができないまま実施しても何の意味もない。非中立性こそが問題だ」
こう辛辣(しんらつ)に選管批判を口にするのは、タイ王立大学の法学部で教鞭(きょうべん)を取る法律学者だ。軍政下では表立って意見を言えず、匿名での取材対応となった。それだけに歯に衣(きぬ)着せぬ発言が口を突いて出る。「2014年クーデターも軍が率先して引き起こしたのではない。選管が選挙を実施せず下院議員不存在の事態を招いた結果、立法権も行政権も機能しなくなり、やむなく軍が介入に及んだのだ」
当時の経過を整理してみる。混乱のきっかけは13年12月9日のインラック首相(当時)の下院解散だった。これに対し、最大野党民主党を支持する反タクシン派は、与党タクシン派に勝利できないことが分かると総選挙のボイコットを表明。立候補受付や投票などを力で阻止する行動に及んだ。この時、事実上の後ろ盾となったのが忠実に選挙を実施すべき立場にあった中央選挙管理委員会だった。
中央選管は強い権限をもつにもかかわらず、総選挙の妨害者を放置して選挙の実施を先送してばかりいた。タイの憲法では下院解散から60日以内に投票が行われ、投票日から30日以内に国会が招集されなければならない。これができなければ憲法裁判所が選挙を無効とし、政権の責任を追及する厳しい判断を示すことは過去の例から明らかだが、中央選管は動かなかった。
政権に反対する勢力が選挙の実施を引き延ばして政権打倒を目指すことはままある。だが、それを「阿吽(あうん)の呼吸」で中央選管が実質的に支えていたとしたらどうだろう。
中央選管で選挙担当だったソムチャイ委員は混乱を理由に何度も同じ問題を蒸し返しながら選挙を引き延ばし、政権や内外の世論の求めにも応じようとはしなかった。その結果、14年3月下旬になって憲法裁判所が2月実施の総選挙の無効を宣言。無政府状態の混乱は頂点に達し、5月22日に軍の介入となった。
◆司法クーデター
タイの選管もかつては日本や欧米諸国と同様の選挙事務をつかさどる行政委員会の一つにすぎなかった。ところが、1990年代初頭に相次いだ汚職や軍事介入への反省から三権を超えた「監視機関」を設置する必要性が高まり、国の統治から独立した憲法裁判所や中央選管などの「独立機関」が設置されることになった。
腐敗や権力の監視-。これが、設置当初に与えられた独立機関の役割だった。“強い選管”の設置は、タイの民主化の必要十分条件とされた。
その権限は絶大だ。独自の予算とスタッフを抱え、選挙規則を自らの判断で制定できるほか、参政権の剥奪や政党交付金の助成、政党の解党を発議する権限さえも持つ。定員は5人。任期は7年で、辞任しなければその地位を追われることはない。現委員は裁判官3人、大学教授1人、元国会議員1人という構成で、任期は20年12月までだ。国民に民主主義教育を施す権限と責務も選管にあるとされている。
ところが、既得権益層の打破を掲げたタクシン元首相の登場を機に、民主政治を否定する立場へと軸足を変えたのが中央選管をはじめとした独立機関だった。以後、強権的な機関はタクシン政治の終焉(しゅうえん)を唯一の目的として選挙で選ばれた政権を次々と交代に追い込んでいった。その動きは「司法クーデター」といつしか呼ばれるようになった。これがタイの現代政治だ。
4月に施行された新憲法でも中央選管や憲法裁判所などの独立機関は温存が決まった。前回の混乱を踏まえ、選挙実施令の公布権限が選管にあることも明記された。だが、張本人の選挙管理委員の顔ぶれは何ら変わらず、引き続き5人が任に当たることになっている。選挙担当のソムチャイ委員は当時の取材に対し、「大切なことは、法律通りに選挙を実施することではなく、良い選挙結果を導くことだ」と繰り返し発言したことでも知られる。
また、ピサの斜塔になぞらえて「大切な仕事の前には傾く必要がある」と自身のフェイスブックに書き込んだこともある。法律学者や非政府組織の中には「ソムチャイ氏をはじめとした現選管では選挙の公正さが担保されない」として委員の入れ替えを求める意見もあるが、軍政下において実現への期待は薄い。タイの民主化は政治不信を抱えたまま、いまなお混沌(こんとん)の中にある。(在バンコクジャーナリスト・小堀晋一)
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