「忖度」の意味 恣意的に歪めていないか 産経新聞論説委員・清湖口敏

視点

 「(『忖』も『度』も、はかる意)他人の心中をおしはかること。推察」-広辞苑が教える「忖度(そんたく)」の意味である。作家の佐藤優氏は「忖度は、人間社会を円滑に動かす重要な機能」「他人の気持ちを推し量って行動するという忖度を抜きにして仕事は成り立たない」(『週刊東洋経済』6月24日号)と述べているが、全く同感だ。

 人の気持ちを忖度し、それに寄り添うのは絶対の美徳である。その「忖度」が森友学園問題をきっかけに汚いイメージにまみれてしまった。加計学園問題では「総理の意向」に対する官僚の忖度の有無をめぐって与野党の論戦が激化した。一連の議論で気になったのは、忖度が冒頭の語義から大きく逸脱し、もっぱら「おもねる、へつらう」の意味で使われたことである。

 世につれ場面に応じて言葉の意味が変わるのは、別段珍しい例ではないから、忖度に負の語感が加わったところで特に驚くには当たらない。しかし国民の言語行動に大きな影響を与えるマスコミが、言葉のもともとの意味までも恣意(しい)的に歪(ゆが)め、それを世間に垂れ流しているのだとしたら、さすがに問題と言わざるを得ない。

 忖度という語は、五経の一つで中国最古の詩集『詩経』(小雅・巧言)に「他人有心 予忖度之」(他人心(たにんこころ)有(あ)り、予(われ)之(これ)を忖度す)として登場する。

 「森友」問題に触れた4月1日付朝日新聞のコラム「天声人語」は、「忖も度も『はかる』の意味である。それが最近では、権力者の顔色をうかがい、よからぬ行為をすることを指すようになってしまったのか」と書き、先の詩経の一節を紹介したうえで、こう続けた。「他の人に悪い心があれば私はこれを吟味するという意味だと、石川忠久著『新釈漢文大系』にある。もともとは悪いたくらみを見抜くことを指したのか」(傍点は清湖口)。

 忖度のもともとの意味を知らない読者はこのコラムを読んで、「官僚が総理の意向を忖度したのだから、総理の考えは『悪いたくらみ』だった」と合点しかねない。コラムはこうして読者を反政権に駆り立てているのではないかと、私はコラム子の狙いを“忖度”してみたのだが、いかがか。

 そもそも、忖度の語義を「悪いたくらみを…」などと書く辞書はどこにもない。諸橋轍次著『大漢和辞典』は「おもひはかる。おしはかる。人の意中を推量する」と載せており、これが忖度のもともとの意味なのだ。「もともとは悪いたくらみを見抜くことを指したのか」とは何を根拠とした御説なのか、全く理解できない。

 念のため天声人語が引いた石川忠久著『新釈漢文大系』(明治書院)にあたってみると、通釈に「他の人に(悪い)心があれば、私はこれを吟味する」(傍点同)とあった。お分かりだろうか、天声人語は引用に際して「悪い」の前後に付されたパーレン(丸括弧)を外しているのである。

 この詩は政治を混乱させる讒言(ざんげん)について書かれてあり、詩意や前後の文脈に照らして解釈する限りにおいては「他の人の心」が「悪い心」を指すというだけの話なのだ。「忖度」そのものが「悪い」を含意するわけではなく、だから石川氏も「悪い」をわざわざパーレンで囲ったのだろう。

 そのパーレンをコラム子が外した結果、忖度の語義がねじ曲げられた。「たかがパーレン」で済むような話ではない。

 さらに-。詩経の「他人有心 予忖度之」は実は、中国の思想家、孟子が諸侯や弟子と交わした問答などを記した『孟子』(梁恵王章句)にも引用されている。斉の宣王に孟子が「人民は誤解しているが、王には惻隠(そくいん)の情がある」と説く。すると王は「詩経には『他人有心 予忖度之』とあるが、これはあなたのことを言ったものだ」「あなたの説明によって私は自らの心にひしひしと思い当たる」と喜んだ。

 もし詩経にいう「忖度」が「悪いたくらみを見抜く」ことだったら、宣王は喜ぶどころか、自らの心を忖度した孟子をきっと責め立てたに違いない。

 言葉の本来の意味を、マスコミが自らの主義主張を引き立たせる目的で勝手に変えてしまう。これをこそ「印象操作」というべきではなかろうか。